七転び七起き

違和感を感じる人は正しいと思う。先日いつものように友人宅へ寄って世間話をしていたところ、先客が私宛てに書いた「メモ」を手渡された。「〇七転び七起き、☓七転び八起き、ごぞんじ」というものだ。何のことかよく分からないので友人に説明を求めると、「七回転んだのなら、七回起き上がるのが正しい」と主張していたとのこと。なるほど、そう言うことか。
先客の仁は、近頃こういった難問をしてくるようになった。何かの折に彼のご機嫌をそこねたらしく、機会あらば私をへこませ、「まいりました」と言わせたいらしい。まことに健全な話である。
この話を聞いてまず浮かんだのはヤマタノオロチだが、理由はよく分からない。
私は若い時から「八俣」なら頭は九つではないかと考えてきた。『古事記』の神話では、スサノウがオロチに酒を飲ますため「八つの樽」を用意するので、頭が八つなのは間違いない。ただ、これも『古事記』の解釈に過ぎないかもしれないと思う。
さて彼の主張である「七起き」について。直感では、最初に「起き」の状態であれば七転び七起きでも最後の八回目に起きられるではないか。何がそんなに難しいのかと思った。かつては生まれた子供をそのまま一歳と数えた。
何も前提がなければ、確かに七起きの方が分かり良い。七回転んだら、七回起きるで十分わかる。ただこれだけなら、転んですぐ起きるだけの話で済んでしまう。
人は生きているだけで丸儲けなら、あなたも私もまず起きていたと前提してよいのではなかろうか。順調に生活できていたのに、なにかの事情で転んだと考える方が説得力はある。
つまり、転ぶ前は起きていた。鶏と卵のどちらが先かというような議論になりそうだが、それなりに起きて生きていたと考えるのだ。
失敗しても懲りずに復元する。いや、くじけず何度でも立ち上がってみせる。その内に経験を積んで、失敗する以前よりはるかに周りが見えるようになる。八起き目あたりにもなれば、すっかり見違えるほど成長をとげているだろう。この話では何度も失敗できるので、農耕民の発想に近いかもしれぬ。
それでは「七転八倒」はどうか。「七転び八起き」で「転び」「起き」は対義なのに対し、「転」「倒」は類義だ。
従って不幸なことが連続して起こっていることになる。これではつらいことばかりで救いようがない。まてまて、生みの苦しみということもある。これだけ苦しいなら、何とか耐えることができれば、大きな成果を得られそうだ。それだけ自分に厳しい課題を与えたのだから、得られるものもそれだけ大きいと考えられないか。
万事塞翁が馬ということもある。もがき続けてみる手があるかもしれない。

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