玄鳥去

「つばめさる」と読む。友人の奥さんが月齢に興味をもっておられ、夫婦で毎年二十四節気及び七十二候を円形に振り分けた表をつくっておられる。この歳になると暑さ寒さが身に染むので、たまに眺めたりする。

梅雨も峠を越し、明けるのを心待ちにしている昨今、晴れた日は気持ちがよいので遠出をすることがある。遠出といっても小さなスクーターで近隣を回るに過ぎないが、この間那比の喫茶店へ行って来た。美味しいものをつまみコーヒーを飲んで気軽な会話をすれば、もう至福の時間と言ってよい。

帰りに走っている先を見ると、道の上に燕が転がっている。車と衝突して、羽が無残に折れているようにもみえた。衝突のショックで気を失っているだけで、ただそう見えたに過ぎないかもしれない。すぐにブレーキを掛ける気にならず通りすぎてしまったが、少しばかり心残りであった。無事であればよいが。

また暫く走っていると、小さな蛙が横切っている。周りに目もくれないという具合で懸命に道路を渡ろうとしていた。轢いてしまわないように、スピードを落としタイミングを合わせて何とか切り抜けた。無駄な殺生をしたくない。

善人ぶっているわけではない。私は少年期に一人で遊ぶことが多く、初夏から真夏にかけて、随分蛙を捕まえて遊んだものだ。遊ぶと言っても、しなる草の茎を丸めて締まる輪を作り、これを頭から腹へやって素早く引けば、簡単に蛙を捕まえられる。これでしばらく遊び、そのまま解かずに逃がしたり、どうかするとぐるぐる回して打ち付けるようなこともしてきた。今となってはひどいことをしたとは思うが、当時はそれが楽しかった。

途中友人宅へ寄ったあと、県道を暫く走る内にやはり道路上で結構大きな蛇を見ることになる。濃い茶色だったのでヤマカガシでも蝮でもないようだった。

なぜか気になる動物が道路に出てくる日だ。活発に行動する時期に当たるのだろうか。中でも、なぜか燕が気になった。この時期は子育てに忙しいはずで、もしあの燕が死んでいたとしたら、ヒナは大丈夫だろうか。衝突しただけで気を失っているだけかもしれず望みはあるわけだが、その日はなぜか気になって燕の絵が何回か頭に浮かんでは消えた。

「玄鳥至」「玄鳥去」の「玄」は黑い義だから、「玄鳥」は黑い鳥で、燕ということになる。『説文』で「燕」(十一篇下206)は「燕、燕燕 玄鳥也」である。中国では古来から燕は縁起の良い鳥ということになっている。本邦でも燕は大切にされてきたが、近頃は田舎でも網などを張って巣を作らせない家が増えているような気がする。はて「玄鳥至」は何と読むでしょうか。                                               髭じいさん

前の記事

梅雨の合間

次の記事

忍び旅