地名と地方史
本来歴史は書き物を基にし絶対年代を旨とする。ところが地方史を取り扱うとなると史料が全く足りない。中世史でもまばらにあればよい方で誰もが途方に暮れる。増して古代史となると、もはや毎日手探り状態である。
私は地名に関心を持ちながらも、これまで正面に据えてこなかった。著名なものを除き、一般に地名は使われ始めた年代を特定するのが難しい。従ってそれだけでは歴史資料にならないわけで、僅かに使えそうなものを選び出して俎上に載せる程度である。これではいつまで経っても同じところをぐるぐる回るしかないので、一通り史料に目を通してしまえば、何となく関心が薄れてしまう。
幸い近世史では割合史料が残るので、しっかり読み取れれば、それなりに説得力をもつ意見も出てくる。どうしても目が行くのはこの辺りになってしまう。だが古代、誰かが継続してここに住み始めれば歴史がはじまる。その人間の出自であるとか、この地に於ける生活の仕方があっただろう。彼らのメールラインが生れたり消えたりしたに違いない。文字資料が限られる以上、あらゆる手立てを駆使してこれを明らかにせなばならない。
彼らの痕跡は地中に眠っていることもあれば、神社や寺に信仰の証が残っていることもある。残っている民俗資料やら方言にも豊富な情報が眠っているかもしれない。民俗学と言っても広くかつ深い。日常使っていた民具やら、伝承する民話を分類するだけでも骨が折れる。
郡上は東部方言の西端にあたるものの、西部方言にも強く影響されてきた。「仮名」だけでも更に検討しなければならないことがある。地元の研究者がしらふで成果をもちより、しっかり話し合うことが欠かせない。これを体系化するには長い時間がかかる。ここでもしっかりした言語学が必要なゆえんである。
慎重に検討すれば、地名もまた彼らの生きた痕跡として使えるのではあるまいか。現在では何かにつけ地名は変わる。新しい住宅地ができれば、小字が消えて、耳ざわりの良いどこにでもあるような地名になる。他方、江戸時代以前では社会が割合安定していたからか、余程のことがない限り地名は変わらない。
今マイブームになっているのは上保、中保、下保など「保」のつく地名で、武儀や郡上の大字に結構ある。気良庄に五保があったと記されている。和良は郡上郡衙が成立した九世紀半ばには「郷」だったとされており、「和良保」は零落した地名ににならないか。一般に「保」は五家を組織して担税や徭役を出す単位だと解されているが、地方では手ごわい勢力のいる地域に堡塁の役割をもたせたと考えられないか。
地名を取り上げるには、史書に登場する時代からどれほど遡れるかが一つのテーマになってくる。 髭じいさん