鈍い
「鈍い」は馴染みがある言葉で、頭の具合がましな時に「愚か」と共にしょっちゅう浮かんでくる語である。「鈍」は「にぶい」とか「なまくら」「かたくな」等と共に「愚か」と言う意味を併せ持っている。
恋愛に疎いとか、空気が読めないとか、政治に関心が薄くて話題についていけないなどが浮かぶ。大切なお金の話であっても、或る程度欲しいには欲しいが、興味の対象になることはそれほど多くないので切り込めない。数えれば切りがないのでこのあたりで止めておく。
要は何かにつけ鈍いということで、繊細な嗜好やら、鋭利な論理などには程遠い人生だった。敗けず嫌いの性分が出て、時になにやら口を出すことがあるとしても、本性を隠すには至らない。
「頓」は「たおれる」「躓く」「苦しむ」などを表す語である。これもまた私の人生をよく表す語で、事あるごとに失敗してきた。注意を怠らなければ避けられた頓挫も、殆んど何も反省をしない性格であってみれば、これを繰り返す他なかった。それ故にだからか、左程ダメージを受けてこなかった気がする。だからこそ進歩しなかったのかも知れない。私はむしろ鋭利な論理を遠ざけてきたように思う。なるだけ人に向けて理屈を言わないようにしてきたし、なまくらを良しとしてきた経緯がある。こうなるともう確信犯と言ってよいか。
ただ人は愚鈍だったり、繰り返し頓挫してきたとしても、見どころが全く無いわけではない。スマートでもなくても、華やかでなくても、人には必ず刮目すべき点がある。
「純」は「一色の帛」が原義で、「混じりけがない」「飾らない」「まこと」などの意味がある。私には魅力のある語で、儒教を始め古来尊重されてきた徳だが、現在ではそれほど流行らないかも知れない。
「鈍」「頓」「純」はいずれも「屯」を声符に持っており形声と考えられているが、他方で意味に繋がりのある通語と認識されてきた。私も「屯」に何らかの実態があるように感じている。
例え愚かであり続けても、だからこそ得られるものがある。様々な条件を勘案して、出来得る限り豊かに生きようとするのは自然である。他方、一心に愛を注いだり、目標に向かって技術を磨いたりするのもありかな。「純」はむしろ愚直であることで得られるように感じる。
愚かでしょっちゅう頓挫する人生であっても、専ら何かを目指すのはストレスを抱えずに生きていける側面がある。思いがけず人生の真実やら善などを手に入れるやも知れぬ。私は、専一ではなかったので、鈍い上に純な性格を得られなかった。
髭じいさん
参考にしてください。
『説文』で「鈍」は「鈍 錭也 从金 屯聲」(十四篇上195)
「頓」は「頓 下首也 从頁 屯聲」(九篇上060)
「純」は「純 絲也 从糸 屯聲」(十三篇上007)