心に刺さった句

年を取ってみずみずしい感受性を失っているのを感じる。空を見ても、山を見ても、毎日異なるはずなのに、なぜか昨日も見たような気分になってしまう。心が躍ることも少なくなった。日常の一つ一つがかけがえのないものなのに、何もない先のことが心配になる。これはあくまで私の個人的な感想です。

私のやっていることにどれほどの価値があるのかを考えてみると、寒々とした感想しか出てこない。若い時のいわゆる根拠のない自信とやつか、生きてさえいれば何とかなるという浅はかな考えでやってきた。今続けていることも、もとはと言えば行き当たりばったりの思い付きから始まっており、それなりに楽しかったので、だらだら続けてきたに過ぎない。安逸に生きてきた結果が今の私であるし、何をしたところで、人の心を動かせることもできまい。

なぜこんなことになってしまったのか、考えてみる気にもならないこの頃、なぜか心に刺さる文章に出会った。「獨學而無友 則孤陋而寡聞」(『禮記』卷第三十六 學記・08)というものである。

学問は本来独学でやるものだろう。だが一人の力は限られている。難問に取り組むには、本人の努力は勿論として、これを客観化するために朋友が必要な気がしてきた。友と交われば、至らない点に気づくこともあるだろうし、自分では気づかないことを目の当たりにすることもあろう。こんな事を知らなかったわけではない。ただただ面倒くさかったので、一人でやれることをやって来ただけだ。

年を取ってしまいゴールが迫ってくるのを受け止めるしかなくなり、目の前に自分のやってきたものを据えると、何だかみすぼらしく感じてしまう。少しばかりルーペを使って細かく見ても、独学の悲しさ、ぬくぬくと自分を守るだけで殻を破れていない。これまで自分を広げようとしなかったわけではない。何回かあったチャンスを悉く失ったのは、自分を知ってもらおうという意欲が続かなかったからだ。

同学の志を持つ仁を探すこともなく、このまま朽ちてしまうのも仕方ないような気がする。他方で、自分の頑なさと視野の狭さをこのままにしておいてよいのかというような自省もしないわけではない。

視力も落ち、体の節々も痛い。幸いまだ体は動くので、自分のやってきたものを公開する方向で考えている。今なら自分の拙さを知るのも耐えられそうな気がする。                                               髭じいさん

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