善人

赤ん坊は生れた時に善人なのか悪人なのか決まっている訳ではない。彼らは育つ環境により如何様にも変化する。簡単ではない。環境が良かったから順調に育つというわけではないし、環境が悪いとしてもしっかり育つ子は沢山いる。

この世には善人と悪人だけがいるわけでもない。大半の人がどちらにもなれるのである。されば善悪の分かれ目はどの辺りにあるか。

絶対神を信じている人なら、神が許すと許さざるを尺度の基準にすることは分かる。ただ多神教であるとか無神論を信奉する人は一様ではないだろう。

人を個人とみれば、出来る限り自ら立ち上げた道徳にのっとり自由で楽しく生きるのが基本で、また周りにいる人と助け合って生きていければ、それほど悪い事をせずとも生きていける。

だが憂き世では、それだけではうまくいかない。人はそれぞれ一人前の人間として衣食住を整えていかねばならない。これが中々厄介なのだ。かくの如き条件が揃わない人は歯を食いしばって生きる外ない。

このような渦中にあって、これが報われる人とそうでない人がいよう。単に巡り合わせが悪く努力の甲斐がない人なら、辛抱強くさえやれば、大抵好転するものだ。が、ここら辺りでプッツンして破綻したと錯覚してしまえば、悪が芽生えてくる瞬間である。こうなると、残念ながら筋の良い善人も悪人になってしまう。

これにもさまざまな観点や程度がありそうだ。どうにならないほど実際に苦しんでいる人もいれば、勘違いに過ぎないような人もいるから一概には言えまい。つまり個人の善惡は本来備わった性質ではなく、生きていく条件が欠けていることが多いのである。

だが事はそれほど簡単ではない。個人として条件が備わって生きている人でも、欲にまみれてしまえば、道徳のみならず法を踏みにじることもある。不思議なことだ。

人はまた一人の国民であったり市民であったりする。かくの如き公人の側面から考えると、善悪の基準は個人を超えてしまうことがある。

本来、国家などは個人の生存やら自由やらを得るために組織されているはずなのだが、邪であったり怠惰な者が政事をすると、途端に国民は様々な場面で迷いが生ずるし、躓いたりもする。

例え賢明な者が指導者として立ったとしても、国家間の争いごとともなれば同様にうまくいかないことが増えてくる。

『春秋經』に「善人在上 則國無幸民 諺曰 民之多幸 國之不幸也」(宣十六年左傳)という文がある。個人と国家を簡潔に述べている。善人を君主に戴けば民に幸はないし、民に幸多ければ国は不幸である。善人だと勘違いした者の支配と天下りを止めねば、民に幸はない。                                              髭じいさん

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