生産年齢

うすうす知ってはいても、生活に追われて棚上げしてきた課題がたくさんある。自分に対する最も厳しい批判者は自分であるはずだが、すっかり老いぼれてしまった。
日常の甘さが生活のみならず精神にまで影響を及ぼし、以前にも増して甘々である。もうこうなっては、どんな言い訳もできない。
この点は普段使っている言葉でも同じで、正面に据えてこなかった用語がある。
今朝新聞を読んでいると、急に心の中へ忍び込んできた単語があった。「生産年齢」というものだ。現状、はっきりした定義は知らない。ただただ「生産」という響きが印象に残り、拭っても失望感が残った。
生産年齢というのはなんでも15歳から65歳までの50年を指すらしい。そう言えば65歳あたりで退職する人が多い。運がいいのかどうか退職後も継続して働く人もいるが、経験を生かせるとしても、盛時の勢いはないかもしれない。
私は数年前に65歳を越している。と言うことは、もう生産年齢を過ぎてしまったのだ。今まで何らかの生産に貢献できただろうか。農業やら漁業などは目に見える成果を出していける。また職人技でもの作りをしたり、工場などで直接生産に携わるなどは分かりやすい。私には仕事のみならず趣味にしても目に見える結果を出してきたという実感はない。
流通やサービス業などでも、欠かせない仕事として感謝されるだろう。私もかくのごとき成果を上げてきたか。否である。
こう考えてくると、どうにか生きてきただけで、ほとんど何も貢献できずに生産年齢を過ぎてしまった感がある。これでは落胆するほかあるまい。
文字通り考えれば、すでに生産に関して主力とはなりえないことになる。まあ世の中ではこれが当たり前の受け取り方なのだろう。これに抗う強い意志がなければ、受け入れざるを得まい。
生産の主力になれないとすればどうするか。主力をサポートする側に回るか、今までの経験を最大限生かして技術をさらに磨くか。それとも、すっかり生産とは離れて趣味に生きるか。立ち止まって考えてみても、よい知恵が浮かばない。若い時なら、落ち着いて後先を考えて整理すれば道が見えてくるかもしれないが、この歳になると今やれることしかやれない。
血圧が高ければ脳出血の心配をしなければならないし、甘いものを食べすぎれば糖尿、塩気が多すぎれば腎臓に来るし、目は限りなく白内障に近い。これからは更に生産効率が悪くなるだろうし、生産性が下がるだろう。
知らないことばかり、やらねばならないことばかり。先の生活でも不安な事ばかり。途方に暮れても、生産年齢が過ぎたことを思い知る他ないのだ。

前の記事

生老病死

次の記事

初心者