善きことをしたるが 悪きことあり

 ずっと前のことですが、道徳の時間で社会を明るく住みやすくするために、お年寄りや障害を持った人など弱い立場の人を助け支えあっていくことの大切さについて学習しました。その後数日経って、ある子が日記の中で、おばあちゃんがバスに乗ってきたので勇気を出して席を譲ったけど、当たり前の顔をしてお礼の一つもなかったので面白くなかったと書いてきました。私の授業の詰めの甘さを知らされ、次の授業でどうこの問題を取り上げるか考えました。
 席を譲った行為は誉められることで好ましい行動がなされたのだけど、「ありがとう」のお礼の一言がなかったのは面白くないわけです。でも、この気持ちが強く残って、次のそうした機会に行動に移せなかったとしたら、道徳的心情が本当に培われたことにはなりません。
 ところで、私たちの心にも自分はこうしてあげたのだから、こうしてもらって当たり前という心が根強くあります。そして、その心は一向に問題になりません。先ほどの子もイイ事をしたのにお礼がないのはオカシイと思う心に何も疑問を抱いていません。実は、この自分の心を問題にしないままでは、道徳は生きてはたらかないのではないでしょうか。
 「善きことをしたるが、悪きことあり。....”われ”ということあれば、悪きなり」と蓮如上人が言われる”われ”の心の問題です。 私の心に深く宿る「自分可愛さの心」・「損得勘定でみていく心」・「「私が」「自分が」の心」そんな自我心(我執)の根深さをはっきりと自分の中に確かめる。「お礼を言われなきゃ、気が済まん根性の浅ましい自分やった」と。つまり、「南無」と本当に自分に帰る世界が展かれることの大切さではないでしょうか。
 西田哲学の創始者、西田幾太郎氏は「道徳が真に生きるのは、背景に宗教があればこそ」という内容を語っておられる言葉が深く頷ける。

前の記事

学校完全5日制

次の記事

素敵な老人