ステレオタイプ

 物事を解釈したり、知覚したりする場合のパターンの一つで、「固定観念」あるいは「偏見」と言った意味です。日常私たちはテレビを見たり、新聞を読んだり、友人と会話したりする時、だいたいは共通の固定観念の中で過ごしていると思います。「あの人はA型だからああなのね。」とか、「まるでイタリア人みたいね。」などと話したりしていますね。いちいちその人を調査してその結果に基づいて判断をしている訳ではありません。そんな事をしていたらチットモ話が進みませんね。正しいかそうでないかは別にしてその場所、その状況などに応じて、共通の(但し、検証されているかどうかは考えず)観念を前提にして話をします。こうした認識のパターンを、アメリカのジャーナリストのウォルター・リップマンという人が「ステレオタイプ」と名付けました。吉本隆明(吉本ばななのお父さん)はこうした事を「共同幻想」と定義しました。社会とはこうした、ある種の閉鎖的な環境の中で形づくられる共通の観念の枠組みのことです。これを否定する事はできません。もし否定すると、変人や外国人扱いをされて、仲間になる事はできないのです。それが社会あるいは「村」というものだと筆者は考えています。「文化」の原型と言うものだと考えます。「あの人はO型だから・・」などと言っているときはそれほど問題はないのですが、ステレオタイプ的な固定観念が否定的な形となって現れると、「偏見」になります。それが行動という形で現れると「差別」になります。こうなると、恐ろしい事になります。こうした根拠のない差別の対象となった人にとってみれば、その人の人生にとって取り返しのつかない事になりかねません。せめて愛する人を血液型で判断するような人になりたくないですね。

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