人並みの愛情

嵐の二ヶ月であった。今年の夏のことである。普段は朝九時に起きれば早起きなのに、八時前にはしっかり目が覚める。孫を朝の散歩に連れて行くのが、すっかり日課になってしまった。何の拍子か、我が家に長逗留することになったからである。
やっと一歳を過ぎた彼は、目に入る変わったもの全てに興味を示し、手でさわり、口に入れようとする。這うスピードが増し、片時も目が離せない。
我が家は明治の始めに建てられた古い間取りで、いたるところに段差がある。二三日目だったか、やっぱり転んで落ちてしまった。注意していても、目を離した隙に、また落ちてしまう。さすがに懲りたのかしばらくは用心していたようだが、やがて逆向きになって足からスムーズに降りられるようになった。
どうもこれで自信を持ったようで、更に玄関の足が届かない段差を降りようとする。さすがにこれは無理と判断したので、ストップをかけた。四五日した後だったか、どうしても降りたいらしいので、大人二人が注意してやらせるとこれもクリヤしてしまう。これはイカン。放っておくと、たとえ条件が悪くても、降りてしまうに違いない。
歩くことについても、大いに成長した。最初はほんの数歩だったが、日を追うたびに歩数が増え、歩き方がしっかりし、方向転換もできるようになった。
私が使っているパソコンにも興味を示し、落ち着いてキーを叩けない。彼が寝ている間しか使えない状況が続いた。これについては緊張関係にあったと言えそうだが、やや不満がある程度だ。数え上げるとキリがないのでもうやめた。
私が特に情の深い人間というのではない。ごくありふれた、平凡な生き方をしている。となれば、どんな環境に育った人でも、一人前になるまでに多くの人間の愛情を受けてきたことは間違いなかろう。

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