国譲り(1)
自分の血筋を引く者に家や財産を残してやりたいというのもまた自然の情である。まして自分が得た名声であれ、選挙地盤であれ、世に優れたものを子供に残すのは一生の目的に値すると考える人もいるだろう。
これが国を譲るとなると、大事だ。古の堯舜のように、禅譲で、国をゆずることは難しい。『古事記』によると、天照大御神が「葦原中国は 我が子天忍穂耳命が知らす国ぞ」と言ったという。荒ぶる国神のなかで最も有力だったのが「大国主神」であった。
大国主神というのは謚(送り名)らしく、実体は「大穴牟遲(オホナムジ)神」であり、また「葦原色許男(アシハラシコヲ)」「八千矛(ヤチホコ)神」などとも呼ばれた。大国主神がすんなり国を譲った訳ではない。子孫たる事代主神や建御名方神を争わせ、天孫族に敗れたことになっている。
『日本書紀』でも話はほぼ同じで、異説をいくつか収録している点に特徴がある。先日の「白山奥院」で述べたように、国を譲った主役が「大己貴(ヲホナムチ)尊」と表記され『古事記』とは異なっている。
「大穴牟遲(オホナムジ)神」と「大己貴(ヲホナムチ)尊」は同一の神名であり、これらから「越南知」「越南智」へ、「越南知」「越南智」から「越知」「越智」へ、更に「越知」「越智」から「越」に遡ることを試みた。
これからすると、国譲りの実体は神と神の間ではなく、越種から天孫族へ主権が移動したことを物語っていることになりはしないか。
神話の世界では、これがいつ行われたか分からない。実年代のことで言えば幾つか候補が考えられる。中でも有力なのは日本国成立直前であろう。『旧唐書』の「倭國」「日本國」の二条が念頭に浮かぶ。倭国が、高句麗・百済と共に、唐・新羅と戦った白村江の戦いで敗れ、衰亡に拍車がかかったことは容易に推定できる。この後いくばくもせず倭国が亡びた後、押し出されるように日本国が列島を代表することになった。七世紀末から八世紀の初頭のことである。政権の正統性を得るために、この交代を神話に託して、遥か千年昔へ遡らせたことになる。