観音様

如何に信仰心の薄い私でも、歳を取ると、多少なりとも宗教に関心が出て来たかと思うかもしれない。だが、罰当たりにも、さにあらず。
奈良県明日香村飛鳥の石神遺跡から観音信仰を裏付ける木簡が出土した。「觀世音經十巻記白也」というもので、裏面には「己卯年八月十七日」という年月が記されている。己卯年は西暦679年に解される。この他にも、同村飛鳥池遺跡から観音信仰を裏付ける木簡が出ているらしい。
天武紀朱鳥元年(686)七月条の「是月 諸王臣等爲天皇造觀音像 則説觀世音經於大官大寺」で、病に伏せる天皇の爲に大官大寺で観音経を読んだと記されており、『書紀』の記述が一部実証されたことになる。これに先立って同七月条には「丙午 請一百僧 讀金光明經於宮中」とあり、観音経のみならず金光明経も読まれていたことが分かる。金光明経は列島に最も早く招来されお経の一つだろう。
さて、『萬葉集』巻三「沙彌滿誓の、綿を詠める歌一首」(0336)では「滿誓」に「造筑紫觀音寺別當、俗姓は笠朝臣麻呂なり」の注がある。これも観音信仰を裏付けると言えよう。滿誓の歌はこの他にも数首が収録されている。
私が気になるのは、「観世音」「観音」をどう読むかという点だ。「沙彌滿誓」は「さみまにせい」と訓まれる。この法でいくと、本居説の「正しき古言」では音節末に「n」が無いから、「観」は「かに」、「音」は「おに」となり、「観音(かにおに)」となる外ない。私には「観音」を「かにおに」と仮名で読む方がむしろ不自然に思える。お経が招来されたというのは、これを読むことができる僧が来たということである。これを仮名で呼ぶとしても、相当こなれた後のことだろう。
従って観音経のみならず、金光明経や仁王経でも「n」を読んで、それぞれ「かんのん」「こんこう」「にんなう」と音で読まれていたのではないか。

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