大化の改新(1)

一昔前にあった「郡評論争」がひとまず決着し、少なくとも大化前後の制度につき『日本書紀』の記述が正確でないことがはっきりした。
『書紀』によると、孝德紀大化二年(646年)正月に「改新の詔」を宣言し、私有民の廢止、京・畿・郡制度の確立、戸籍・計帳・班田收受の法の施行、調・庸などの税制を定めたとある。
だが、これらの施策は後の大宝・養老令と類似しており、『書紀』編者の作文であるとする説が古くからあった。中でも金石文などから行政の基本単位である郡制度などに疑問が生まれ、「大化の改新」自身の信憑性が疑われるようになっていた。
1967年、藤原宮の濠から「己亥年(699年)十月 上捄國阿波評松里」という木簡が出土し、大宝令直前まで「郡郷制」ではなく「評里」の制度であることが証明され、以後もこれに矛盾する出土例がないとされる。これ以後も『書紀』の記す役所名・職階など様々な齟齬が発見されている。
大宝から遡って干支が一巡もしない「歴史」であり、これらを単なる「誤り」とは考えられない。「大化の改新」を見直す必要に迫られていると言ってよかろう。
まず、ここに到る諸先学の研究に敬意を表したい。当然とは言え、営々として仮説と実証を繰り返し、新たな歴史像をつくろうとした努力は賞賛に値する。更に史料を整理し、より大きな仮説で整合性を見出そうとするのも又当然の営為である。
私は、干支を冒頭に置く大宝令以前の木簡の記載方法から、「大化」という年号自身に疑問をもっている。『書紀』では同元年条に元号に関する記事がないことからも突然年号を用いるとは考えにくい。法興-大化が蘇我氏に関連した日本国の私年号であった可能性を指摘しておきたい。倭国年号に「大化(695年-700年)」があり、これとの関連も気になるところである。

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