隅田八幡神社 人物画像鏡(2)
前回は、「斯麻」が武寧王のことではないかと述べたが、今回は武寧王の在位時代(501年-523年)にしぼって「日本國」が存在したのかを確かめてみよう。
『三國史記』に収録されている『百濟本紀』第四武寧王本紀は、残念ながら、「倭國」「日本國」のいずれにも言及しない。
『日本書紀』の引用する百済系三史料というのが知られている。『百濟記』『百濟新撰』及び『百濟本記』である。念のために言っておくと、『百濟本記』と『百濟本紀』は全く異なる史料である。
前者は『日本書紀』に引用されており遅くとも七世紀後半には成立しているのに対し、後者は高麗時代の十二世紀中ごろ撰進されたものだ。
武寧王陵の発掘により、『百濟新撰』の記述が正確で史料価値の高いことが分かっている。これにより、『百濟記』及び『百濟本記』もまた史料として充分使えそうだ。
この内、繼體紀三年(509年)春二月条に引用されている『百濟本記』に、「久羅麻致支彌從日本來 未詳」という文がある。「久羅麻致支彌從日本來」は「久羅麻致支彌が日本より來た」、ほどの意味と思われる。「彌」を「禰」とする版本があるようだが、「日本」は共通している。はっきりした引用はこの一例のみだが、繼體紀八年(514年)三月条の「以備日本」も『百濟本記』の引用を地の文にしたと思われる。
六世紀前半の仏教導入から七世紀後半ないし八世紀初頭まで、「日本國」が百済の影響を継続して受けていることは間違いなかろう。後の「富夲」や「和同開珎」の例からすると、もともと百済でも金石文に俗字や略体を用いていたとも推測でき、この「日本」が「日夲」であった可能性が出てくるのではあるまいか。
『書紀』の編纂された辺りでは、唐代のしっかりした楷書体が浸透し始めており、「本」を「夲」で代用することはなかろうから、現版本は「本」の字形で伝わったと推定するわけだ。
これらは武寧王代に「日本國」が存在しており、「斯麻(シマ)」が「日夲大王」に鏡を贈る前提条件が整っていることを示している。