自殺
若者のみならず、年寄りにとっても気になる物騒なテーマである。
自分が生きていくというのは、年を重ねることであり、また身の回りの人を失っていくということでもある。
私の場合、父母から兄、叔父、伯母などの身内から、友人、近所づきあいや単なる知り合いまで入れると随分送ってきた。
今、私は兄姉にとっては弟であり、孫にとっては爺さんであり、子にとっては親であり、妻にとっては夫である。友人にとっては友であり、つまらないとは言え何人かの人にとっては師であり、近所にとってはお隣さんだ。自殺というのは、生物としての死であるのみならず、これらの関係を一度に絶ってしまうことである。
生きている以上自分の価値観で生きるほかないが、幾らかでも人の役に立っていれば、それほどがっかりすることはない。尊厳死はこの延長にあるだろう。
この年になると、かえって「将来の希望」というものが必要なのかもしれない。たかが金にしても、体が弱っていくわけだから何かと物入りのような気もするし、働けなくなったときの不安がある。また大病を患うことが頭に浮かんだりすると、死がよぎるものの、まだやり残したことがあるという気分が幾らか生きる重しになる。
自殺を認めない宗教は一定の効力を持つだろうが、これに拘りすぎると、矛盾の環にからまってしまう。生きることで生きる気力が生れるものだ。いろいろ楽しむことが大切だと思う。
若い時は、潔癖な生き方を望む傾向にある。人を愛してこれを失い、人に勝ろうとして挫折し、手痛い裏切りやいじめのようなリンチにあえば、絶望したような気分になるものだ。だがこれらの「苦難」は通過儀礼であることが多く、より強靭な精神に生まれ変わることもできる。
現在リンチにあっているような人は、身近な人に相談して、共に闘うようすすめたい。まあ、これにしても行き過ぎは禁物だが。緩やかな自殺については、いずれ又ということで。