空心と点心
空心という言葉を聞けば、皆さんはどんな意味を想像されるだろうか。私は先ず、「空しい心」と考えてしまう。空虚や空疎など、「空」が「むなしい」という意味で使われることがあるからだ。
だが、「空心腹」や「空心菜」などの用例からすれば、「空腹」の意味が考えられる。私がかなり信用している諸橋氏の『大漢和』という辞書では、やはり「空腹」の解である。
点心の場合は、はっきりしており、間食や茶菓子のことで、少しばかり食べ物を心腹の間に入れる意味で使われる。
いずれにしても、「心」が「心胸」「心腹」などのように、実態のある語なのだ。これは伝統的な解釈らしく、『説文』では「心 人心 土臧也 在身之中 象形」(十篇下124)だから、「心」は心臓の象形字である。
これを読んだ時、軽い驚きがあった。心は心ではないか。心は、言語で成り立って実体はないが、各人を人たらしめる抽象化された「考え」みたいなことを想像していた。
だが歳をとってくると、絶対化された価値だとか、独りよがりの観念論に飽きてくるものらしい。それなりに経験を積んできたから、幾ばくかは危険なこと、大事なこと、楽しいことなども分かってきた。又、どうしてもこれらを伝えたくて、若者にくどいと思われるようなことも経験した。
一人でやれることには限りがある。加えて私の愚かさを勘案すると心が空虚になりそうだが、少しずつ心の栄養を取りながら、今までのいきさつに拘るほかないようだ。
いつまでも生きていけるわけではないし、毎日腹が減る。お節介はほどほどにして、のんびり点心でもしながら、空心を癒して生きていければよいが。