『説文解字』入門(6)-「鵜」の話(2)-

大国主神は、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神や宇都志国玉神など多様な名と性格を持つ神であるから、特定のことを取り上げてあげつらうのも躊躇せざるを得ないが、中国での鵜飼の中心地が恐らく長江の中下流域であり、かつて割合古い形の鵜飼が九頭竜川で行われていたこと、大国主神の原形を「越南知(ヲナムチ)」とする立場からは、放置できないのである。
皆さんは、石川県羽咋市にある気多大社という神社をご存知だろうか。ここで毎年十二月十六日に鵜祭という神事が行われる。社伝によれば、大国主神が鹿島に着いた時、御門主比古神が鵜を捕らえて捧げたのが故事という。
また『古事記』国譲りの段で、櫛八玉神が「鵜」に化して海底から「波邇(はに)」を咋出てきたという話が思い浮かぶ。この「波邇」は一般に「埴(はに)」と解され、神事の器に焼く素材である。
これらからも、大国主神と「鵜(う)」との関連が深いことを推察できるのではあるまいか。
これに対し『古事記』は、用語を誤ったのであるから、編纂者がこれらを正しく理解できていなかったことになる。
『古事記』では、大国主神は須佐之男命の娘婿でありながら同時に彼の神裔として、少名毘古那神は神産巣日御祖命の子としてそれぞれ天孫族に取り込まれている。
にも拘わらず、これを書いた編纂者が大国主神との関連が強いと思われる「鵜」を誤った点が腑に落ちない。これは国譲りのほころび又はその未完成な断面を見せているとも考えられよう。
『古事記』ではまず「国譲りありき」であって、彼らを取り込んだ矛盾に加え、これらの話が創作であり何らかの史実を潤色するためであったと言えば、頑張り過ぎなのかなあ。