大矢田神社(3)

地方史と言えば、なんだか退職した教員のライフワークみたいな印象を持っている人が多いかもしれない。だが、男女を問わず様々な年代の様々な経歴を持つ人が担っていると言っても過言ではない。身近なことを取り上げるから、一つ一つ熱心に構想を練り、質の高い議論をしていることが多く、なにより行動しやすいから実証に有利という意味もあろう。
私の場合、若い時には結構バイクで走り回り、地元の人から話を聞いたり、無遠慮に史料を借りたりもした。安物であり、しかも腕前に問題があったが、気になるものをカメラで写真に撮ったりもした。
だが今ではあまり外に出ることを好まないから、残念ながら郷土史の最前線に立っているというわけにはいかない。とは言え、頭の中ではいつも現役のつもりである。
大矢田神社の近くに『古事記』の喪山や下照比賣の誕生山があることは既に書いた。今日は、これらから左程遠くない所にある国史跡の丸山古窯跡を紹介したい。
関市に弥勒寺遺跡といわれるものがある。ムゲツ一族の氏寺として建てられ、壬申の乱(672年)の戦死者を弔っていると言われる。大和法起寺様式の伽藍配置を踏襲しているとされ、法起寺は十一面観音が本尊である。古窯跡とこの弥勒寺遺跡を併せて国史跡に指定されている。
この弥勒寺の軒平瓦が丸山古窯跡で発見され、大矢田神社-丸山古窯跡-弥勒寺の関係が浮き出ることになった。
これで大矢田神社の泰澄伝承が確認できるわけではないが、彼の生存時にこの神社がすでに存在していた可能性が高くなるのではないか。しかし、天王山禅定寺を創建したと言われる泰澄と弥勒寺にどんな因縁があるのかよく分からない。
私は、考古学の成果を援用するのを好まない。だが、なにせ史料が限られており、今のところ越前の大谷寺と同様、地下に眠る文字史料に期待しているところである。

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