『説文』入門(14) -男弟考-

人物画像鏡に記される「男弟王」につき、弟は男に決まっているから、わざわざ男弟というのは奇妙だと感じている人が多いと思う。だが、これがりっぱな漢語であることを示そうという心算である。
『説文』では「弟 韋束之次弟也 从古文之象」(五篇下208)とあり、かなり難しい解だ。
「韋」は「なめし皮」のことで、「束」は「縛」と転注で「縛る」「束にする」あたり。
「次弟也」は、段注によれば「束之不一則有次弟也」である。つまり「束にならないものが次弟」で、これから次弟の「弟」、兄弟の「弟」の義が生じたと云う。本来、「弟」が兄弟の「弟」の義ではなかったことになる。私は四人兄弟の末っ子であり、一束にならない半端ものであったのかと抉られたように感じる次第だが、あくまでこれは二千年前の話であり左程がっくりすることもなかろう。
これは「妹」(十二篇下040)を見れば一目瞭然で、許愼は「妹 女弟也」と解している。「弟」が兄弟の「弟」でなく、「一束にならないもの」という義がはっきりする。「妹」が「女性の束にならない者」となれば、腹のたつ人もいそうだが、長子相続の考え方に支配されていた時代の定義だと理解すればよいのではないか。
但し、『爾雅』という更に古い辞書では「男子先生爲兄 後生爲弟」(釋親第四・1-7)とあり、古くから兄弟の弟という義が生れていたことは確かである。従って、『説文』の解はあくまで字形の本源を見据えたものと考えればよい。
俄に「男弟」の適切な用例が浮かばないが、『三國志』魏書・東夷傳・倭人条に「名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年巳長大 無夫婿 有男弟 佐治國」という有名な文がある。今回はこれぐらいで勘弁していただきたい。
『玉篇』『廣韻』共に、『爾雅』と『説文』の両説を紹介しており、この義が後世永く伝えられたことが分かる。以上から、画像鏡の「男弟-王」が漢文化を熟知した漢語であり、「日十大王年」の弟とも読めることを示せたと思う。