人物画像鏡(21) -顕宗天皇の在位八年-

私は、男弟王を漢語とみて、『梁書』扶桑国条でほぼ同時代に登場する「乙祁」にあてた。またこの「乙祁」を「袁祁」とし、「日十大王年」と「男弟王」を、それぞれ兄弟で王になった「意祁(億計)」「袁祁(弘計)」にあてたのである。恐らく「乙祁」と「袁祁」の音韻が通じており、弟の方が先に即位している事情があるからだ。
この仮説では、503年に乙祁(袁祁)が王であったことになる。これを基にして503年が彼の在位のどの辺りになるのかを推定してみたい。
五世紀後半から六世紀前半の年代は『日本書紀』と『古事記』で錯綜しており、混乱を招く可能性がある。今回は『書紀』の年代を基準にして考えている。顕宗紀によれば弘計天皇の在位は三年だが、顕宗記では二回もその治世を八年と記す。従って両者が異なるから、慎重にならざるを得ない。
清寧紀によれば、清寧天皇の在位は五年で、どうもこれが偶然とは思えない数字である。彼の場合、紀記共に殆ど前紀にあたる部分が書いてあるだけで、本紀の大部分は弘計王(袁祁王)、億計王(意祁王)の記事に終始している。これは、清寧の五年を弘計王の八年にもぐりこませた事を示すのではないか。つまり、『古事記』の袁祁王在位八年は、『書紀』の清寧五年と顕宗三年を加えたものではないかという意味である。
とは言え、私が清寧王在位の五年を架空だと考えているわけではない。『書紀』に従って、清寧が雄略の後を継ぎ、在位五年の伝承があったことを一応認めた上である。私はこの五年を、継体天皇の在位二十五年を皇統に割り込ませるため、その一部を稼ごうとして顕宗紀に重複させたと考えている。詳しくは、継体天皇の在位年と死亡年について考察する続編に期待してもらいたい。
この構造が認められれば、億計王の十二年、武烈王の八年を加えて二十八年となり、503年から数えて二十八年後は531年だから、『百済本記』の「或本云 天皇廿八年歳次甲寅(534年)崩 而此云 廿五年歳次辛亥(531年)崩者 取百済本記爲文」という記述に符合する。これは辛亥年(531年)に死亡した天皇が、継体ではなく、武烈であったことを示す。
これらから、顕宗天皇の在位を503年から510年までの八年と考えるのも有力ではなかろうか。