金印(5) -「委奴」の義-

前回は金印の「委」から地理志の「倭」が「ヰ」であって、「ワ」ではないことを示せたと思う。面倒な音について付き合ってもらったので、今回は義を中心に楽しんでもらいたい。
まず臣瓚・師古の「倭國」説をどうするか。これを採用すれば、紀元前に「倭國」が存在したことになる。大胆な発想だが、今のところ史料の裏づけがない。史料上「倭國」が登場するのは後漢代であり、地理志が記す「倭人」の「倭」は「倭種」と解するのが自然ではなかろうか。現状、彼らの主張する「倭國」は「倭人の國」「倭種の國」あたりに理解する外ないかもしれない。
『後漢書』光武帝紀・中元二年春正月条には「東夷倭奴國王遣使奉獻」とあり、「倭國」は記されない。「倭國」が記されるのは同東夷列傳倭条で、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也」とあるのが初見である。私はこの場合の「倭國」も「倭人の國」と解しており、これらを代表する国家として「倭奴國」を位置づけている。とすれば、この国を更に分割することはできないのではないか。この点は、興味深いと思われるので、再度取り上げるつもりである。
また『説文』入門(13)で述べたように、「漢委之奴國王」となっていれば「委」「奴」をそれぞれ倭語とも考えられようが、そうはなっていない。漢語で倭語を用いるのであれば仮借の用法しかなく、それぞれ一音節の二単語を何の脈絡もなしに連続して仮借字にすれば混乱してしまう。やはり、「委奴」を「委-奴」と分ける根拠は薄いと考えざるを得ない。とすれば「委奴」の義だが、
1 如淳が「如墨委面」で「委面(顔のいれずみ)」と解するのは、金印で「委」の字形が使われていることからも軽視できない。この場合、「倭人」が「委奴」になる。
2 『後漢書』光武帝本紀の文脈から、「匈奴」と対比して「委奴」の字形とした。
3 「委 屬也」「委 任也」から、「委奴」を字義通り、「奴をゆだねる」と解する。
等が考えられる。
1につき「委面」は、「面」を「北面」として「禮物を贈り、臣下となる」とも解せるが、「墨委面」であるから入れ墨していたことは間違いあるまい。とすれば、彼が倭人の「倭」を「委面」と解したのは成り行きで、なかなか面白い。ただこれは倭人文化の一断面に過ぎないとも考えられ、「委奴」の解釈には何か足りない印象もある。
2は、まだ匈奴がその勢力を保っていた時代であり、中元二年条の前後に「匈奴」が散在する文脈から有力な仮説だろう。
3は、『後漢書』東夷傳に「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」とあり、「生口」を奴婢や罪人と同一視できないとしても、後漢朝に奴婢の類を多数供給していたことから充分に考えられる。