『説文』入門(19) -「奴」のこと-
今回は「委奴」の「奴」について音韻を中心に考えてみよう。かなり厄介であるから、基本に戻るほかない。
『説文』で「奴」は「奴 奴婢皆古辠人 从女又」(十二篇下053)で、会意字である。「辠」は難しいが、秦の始皇帝が「皇」に似ているから「罪」の字体に改めたという経緯がある。許愼は古い字形を使っており、『周禮』の定義を借りて「奴婢」が古代では罪人であったとする。会意字であり、字形から音をたどることは難しい。
音につき、段氏は『玉篇』及び『廣韻』上平聲を採用し「乃都切」、『集韻』は「奴故切」「農都切」である。声母の「乃」「奴」「農」は共に[d][n]に両用する。韻母が「都」で「當孤切」だから仮名音は「ド」「ノ」あたりで、一応「ド」を北音系、「ノ」「ヌ」を南音系と考えられよう。
これだけでいずれかを確定するのは難しいので、「奴」を音符とする形声字を見てみよう。『廣韻』模十一によれば、「笯」(五篇上083)、「帑」(七篇下376)、「砮」(九篇下147)は「乃都切」で同音である。
まず「笯」については、『方言』郭璞注に「笯 音都墓」とあり、声母が無声音の「都」である。ただし『廣雅』釋器の曹憲音は「女加 奴慕二反」で、「奴慕」を「那墓」に解する説もある。
また『説文』「帑」の段注は「今音帑藏 他朗切」で、これは『玉篇』『廣韻』にも収録される音であり、『詩經』音義の「帑依字吐蕩反」に遡れるかもしれない。とすれば声母が「他」「吐」である。
以上から、後漢朝が製作したのであるし、「匈奴」「委奴」が対応するとすれば、確かに北音の「ド」を採用するのが自然で、この点では三宅説に賛同できそうだ。ただ、形声字に古音が残ることもあり、古くから無声音である[t]の系統があったとも考えられる。
ただし、『史記』呉世家の正義(唐 張守節)注に「難 乃憚反」などとあり、「乃」が[n]の声母として使われているように見える。だとしても、「難」には「ダン」「ナン」の両系統があり、唐代の音表記として「乃」が[n]として使われている例に過ぎないだろう。
また、『越絶書』『呉越春秋』で「奴」を[n]系統の「ヌ」あたりに解するのは南音だろうから当然だし、『廣韻』姥十の「砮」「怒」(十篇下297)「弩」(十二篇下378)は「奴古切」で同音だが、声母はやはり[d][n]の双方考えられ、必ず[n]系であったとは言えまい。
これらから金印の「奴」を「ナ」の系統とするのは、先ず結論ありきの音解釈で、充分な根拠があるとは思えない。