八俣の大蛇(12) -八頭の必然性-

前回は、八大龍王のうち和修吉が九頭龍として受け入れられたと推測した。今回は、八大龍王そのものが八俣大蛇のモデルになった可能性について触れてみたい。
大蛇がなぜ八頭なのかは、実際のところよく分からない。
八俣の大蛇(5)で考えたように、『出雲國風土記』にある「大穴持命 越八口平賜而 還坐時」から、「越八口」を「越八囗」として、越に八国あったからとするのも確かに一つの解である。
大穴持命の場合であれば、出雲と越が争っていた時代を検出する必要があるし、また「越の八国」がどうして「越の八俣大蛇」になるのかも証明しなければならなくなり、神話に逆戻りしそうだ。
それでは観点を変えて、いつ頃大蛇が八頭になったのかを考えてみる。私は、記紀から左程遡れないと考えている。至る所にある大蛇伝承の中で、八頭であるものが少なく、八頭になる必然性が乏しいからである。
私は、九頭龍が仏教に関連すると推定してきた。八俣大蛇は、この九頭龍の延長で創作されたのではあるまいか。
最も早く伝えられた仏典の一つが「金光明最勝王經」であることに異論は少なかろう。
「金光明經」巻七八の大弁才天女品第十五、同巻十の大弁才天女讃歎品第三十では八臂である。八本の手は弓、矢、矛、斧、鉄輪、羂索などを持つ。これからすれば、大蛇が嫌う弓矢や金物ばかりであるから、弁才天を八俣大蛇の原形にすることは難しい。因みに二臂で琵琶を持つものは密教系といわれる。
私は、六世紀末には、「法華經」も国家仏教に近い形で伝播したと推定している。越系倭人を中心に受け入れた観音経を介して、七世紀には八龍王が各所で水神として定着していったのではないか。
私は、この前提のもとで、系統の異なる須佐之男命が八俣大蛇を退治したと考えている。これでよければ、主として倭人が信奉する八龍王が原形であったと考えるのも有力ではなかろうか。つまりこの仮説では、八龍王を零落させて八俣の大蛇にしたことになる。

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