金印(18) -「磐井の乱」-
前回、ほぼ526年から539年の間に完成された『梁職貢圖』に旧委奴国系倭人の国使が描かれていると推定し、おおよそこの間に倭国で主たる勢力に交代があったと考えた。
この時期これに対応しそうな騒擾として「磐井の乱」を取り上げてみよう。国内史料にしか記されない「磐井」をここで取り上げるには、年代などに不安がある。だが記紀のみならず『風土記』逸文でも言及されており、まんざら架空とも思えない。
『風土記』逸文というのは、『釋日本紀』巻十三で「筑後國風土記」の逸文として採録されたもので、「上妻縣 縣南二里 有筑紫君磐井之墓墳」という書き出しで、筑紫の君である「磐井」をとりあげている。『風土記』には「縣(あがた)風土記」及び「郡(こほり)風土記」の二層あるようで、これは古層の「縣風土記」を原形にしているとも考えられる。私は、今のところ、次のような点から史実に近いと考えている。
1 「雄大迹天皇之世」(逸文)とあり、「雄大迹天皇」は継体天皇で、彼は越前の出身であると根強く伝承されている。
2 「廿一年(丁未 527年)夏六月壬辰朔甲午 (中略) 於是磐井掩據火豐二國」(継体紀)とあり、磐井の勢力が「火豐二國」を含む広域に及んだと読める。逸文の「生平之時 預造此墓」から、磐井君は生前に巨大な墳墓をつくっており、相当な権力を有していただろう。また「欲襲之閒 知勢不勝 獨自遁于豐前國上膳縣 終于南山峻嶺之曲」(逸文)は、王者の最後に相応しい記述である。
3 「新羅知是 密行貨賂于磐井所」(継体紀)だから、中国との関係は不明としても、磐井は実際に新羅と外交している。
4 「墓田」「衙頭」(逸文)は行政区分と関連しそうな用語であり、「解部」(逸文)などから、ある程度洗練された制度を持っていた。またこれらの連語は「偸人」(逸文)とあわせ、漢語ないしは漢語風の造語であり、中国との関わりが想定できる。
5 「官軍追尋失蹤 士怒未泄 撃折石人之手 打墮石馬之頭」(逸文)という記事から、攻撃方が相当乱暴な振る舞いをしている。
以上から、「磐井の乱」を史実として、磐井君が倭王武の系統だと考えられないか。この場合、磐井君が倭王武と同一人物なのか、彼を継承した人物なのかはじっくり検証してみる必要がある。また継体天皇は、この形で実在したとすれば、旧委奴国系で越種だったことになる。