日常と非日常
私は、家の中ではリラックスした格好で過している。「家」が内と外を区別する境界であるとすれば、単に内弁慶になっているだけかもしれない。
毎日、家の前を観光客が通る。彼らにとっても観光が非日常であることは間違いあるまい。帰るところがあって、目先を変えるため旅へ出る人が多かろう。若者から高齢者まで、それなりに身奇麗な服を着て歩いている。仕事で彼らの相手をする者を除けば、受け入れる地元の衆にとってもまた彼らは非日常だ。
私が郡上で暮らすようになって三十年になる。いま私が住んでいる借家は、明治の始めに建てられたもので、相当古い。まるで先祖からここに住んでいるかのように振舞ってはいるが、この家で過したのは通算しても二十年を過ぎた程度である。
すっかり信用されているかどうかについては大いに疑問があるにしても、この辺りの人間関係にはそれなりに溶け込んできたとは思う。だからといって自分の流儀を曲げてきたわけではなく、私のわがままを受け入れる度量のある町だったということだろう。
かつて郡上八幡は城下町であったから、一般に住む者の気位が高く、近所の付き合いにしてもある程度洗練されている。田舎とはいえ、漁師町のように気楽な格好で外に出るというのは憚られる風潮はある。
だとしても引っ越したばかりの頃は、今ほど観光に執着していなかったせいか、町の人の姿も様々であった。まだあちこちに風呂屋があったし、綿の下着姿や寝巻きで外に居ることもさほど不自然ではなかったと思う。
各家庭に風呂ができ、ぼちぼち周年で観光客が来るようになると、家の外へはそれなりの格好をして出るほかなくなった。我が家の裏にある疎水にも、なぜか朝から晩まで観光客が行き来している。裏の庭にいても、落ち着いて考えごともできない。
我が家に友人が泊まる場合でも、日常と非日常の軋轢がある。起きる時間でも、ごはんの時間でも、着替えでも、ひとつひとつがプレッシャーになる。
まして日常そのものを観光にあてるのは、その中で普通に生きる者にとって、大きな力で自分の生活を曲げられているような気がして嬉しくない。商売をしている人からすれば、辛抱してもらいたいかもしれない。だとしても、日常の私空間深くまで非日常が入り込むのは不自然だろう。隣近所の小さな付き合いをも潰してしまうことになりかねない。どこかで、線引きが必要ではなかろうか。
私は、今でも周りの雰囲気より、自分の気分を優先した格好をしている。まさにこれが私の日常である。