好太王碑文(6) -「倭」の解-

碑文中に用いられている「倭」がどのように定義されるかは、倭国史のみならず列島の古代史全体に関わるが、ここではその概略を示すのみとする。内容からすれば、二回に分ければよかったかもしれない。用例は十。
01 「百殘新羅 舊是屬民 由來朝貢 而倭以辛卯年來渡海 破百殘□□新羅 以爲臣民」(五年条)
02 「九年 己亥 百殘違誓 與倭和通」(九年条)
03 「而新羅遣使白王云 倭人滿其國境 潰破城池 以奴客爲民」(九年条)
04、05 「倭滿其中 官兵方至 倭賊退」(十年条)
06、07 「安羅人戍兵 拔新羅城口城 倭滿 倭潰城六」(十年条)
08 「倭潰城大赤口安羅人戍兵」(十年条)
09 「口倭不軌 侵入帶方界」(十四年条)
10 「倭寇潰敗 斬殺無數」(十四年条)
01の「倭」は、「百殘新羅」と並列されているので、一応「倭國」と読める。この点について前文に「百殘新羅 舊是屬民」とあり、この場合の「百殘新羅」は「民」であり「國」ではないという解釈もできそうだ。
だが六年条に「科殘國」「百殘王困逼」「將殘王弟并大臣十人」とあり、「百殘」は「科殘-國」と認識され、王制であり、大臣がいたことになる。これから私は、「百殘」を高句麗にとって強敵である「國」と解している。
また新羅も「新羅遣使白王云 倭人滿其國境」(九年条)「新羅安錦」(十年条)とされ、少なくとも新羅には国家の認識があり、高句麗もこれを追認している。更に両条には王とそれなりの官制が記されていると考えてよかろう。新興であっただろうが、新羅もまた国家として認識されていた。
これらから「屬民」は、それぞれ独立した対等な王の存在を認めないという高句麗の大義名分論に基づいた概念ではなかろうか。「百濟王」ではなく「百殘王」であるし、「新羅王」ではなく「新羅-安錦」と表記されている。
02の「倭」も同じく「百殘」と併挙されており、「百殘」を国とみれば、やはり「倭國」だろう。「口倭不軌 侵入帶方界」(09)の「倭」は、欠字があるので確かでないが、「帶方界」という当時焦点になっていた地域の争奪に加わっており、「倭国の兵」と解してよいかもしれない。
「倭賊」(05)「倭寇」(10)は、また大義名分論に基づいた表現と考えられ、「百殘」(五年条)「科殘國」(六年条)などと通じ、背後に「倭國」があると考えられる。これを単に倭人の「海賊」や「盗賊」などと矮小化するのはどうか。
「倭人」(03)は、十年条で「安羅人」を百済や新羅と同等の国家と見ることはむずかしいだろうから、倭種人と読めるのではないか。この場合は、倭国の派遣した兵として倭人が新羅との国境に満ち、新羅の城池を潰破して、高句麗の奴客である新羅を「民」にしたと読める。またこれを基準にすれば、「倭滿其中」(04)「倭滿」(06)は文の構造が似ており、それぞれの「倭」は「倭人」だろう。
これから、「倭-潰」(07、08)も実際に兵を用いて潰破したのだから、「倭人」と読めないか。とすれば「倭寇潰敗」は「倭人潰敗」にもなるが、ここでは倭国の侵略を食い止めることができた意味が強いようにも思える。
以上、碑文における「倭」は、おおまかに「倭國」「倭人」の二様に解釈できるのではなかろうか。