延命地蔵
物知り顔に書くのもどうかなと思いながら、もう書き始めている。どうしても凄まじい絵が頭から離れない。
天保の飢饉は、一般に天保四年(1833年)から十年(1839年)まで続いた大飢饉を指す。その頃の郡上藩主は青山氏であり、幸寛が三年六月に二十七歳の若さで死亡している。彼には子がなく、弟の幸礼を養子に迎えて同年に藩主とした。郡上での飢饉は、この幸礼氏の代にあたる天保八年(1837年)前後がもっともひどいようだ。
この年、城下で「粥が振舞われる」という噂が藩内各地に広まったらしい。小駄良筋や「上之保道」からも百姓が集まってきたが、城下に入る惣門や橋を通れなかった。集まった者たちはやむを得ず河原へ降りるなどして休んでいたが、そのまま力つきて、街道脇や河原には餓死者が転がっていたと伝えられている。真偽は不明ながら、銭を口にくわえたまま死んでいた者もいたという。
私は、その頃もあったと思われる「上之保道」から城下に入る小駄良川に掛かっていた橋が気になっている。十七世紀中頃にあたる寛文年間の地図によると、なぜかすぐ近くにもう一本橋がかかっており、城下側の「桝形(ますがた)」が二本の橋を受ける形になっている。地図では「上之保道」と向山の小駄良道が繋がっていないから、私はこれらを遮る「歩危(ほき)」があったのではないかと推測している。それで別々に橋を架けるしかなかったのではないか。
「上之保道」は、五町から越前へつながるので、越前街道とも呼ばれた。私が引っ越したころは路線バスのコースになっていたものだ。この街道を吉田川にそって上ると尾崎あたりで狭くなり、橋がかかる所は岩場である。因みに、ここでは山並みが途切れる所を「尾崎(おさき)」と呼ぶ。
延命地蔵はこの尾崎にある。近くの者たちが飢饉で亡くなった人を弔うために地蔵を祀ったもので、今では病気平癒を願う人がお参りするそうだ。