邪馬臺國(1) -「臺」の変遷-

相変わらず古臭いことを考えるものだと自分でも感じ始めている。コラムという場に相応しいテーマであるかどうかの不安もある。楽しんでいただけているだろうか。
『説文』入門の「壹」「臺」に関するシリーズで、『後漢書』倭条の「邪馬臺國」が『三國史』倭人条の「邪馬壹國」と同一国家であり、中国側の都合による異称であることを示し、「邪馬臺國」という存在が倭人条の記述によって一層確かめられると解した。
だが、『説文』というテーマからずれてやや歴史学にのめり込んだ反省から、稿を「邪馬臺國」と改めて、もう少し同国を削り出していきたい。
さて、『後漢書』で「邪馬臺國」は次のように記されている。
「自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國」
「武帝が朝鮮を滅してより使駅を漢に通じる者が三十国ばかりあり、それぞれの国では皆王を名乗り、代々継承され、その大倭王は邪馬臺国に居る」
私の訳を見ていただく必要がないくらいの文で、漢文が得手でない人も、大凡の意味が掴めるのではなかろうか。
ただ、「其大倭王」の「其」が何を指すかによってやや解釈が異なる。
一つは武帝が朝鮮を滅亡させてから間もなく漢に通じた「三十許國」、一つは「世世傳統」した後の「(國皆稱)王」である。
急いで結論を出す必要もないが、前者なら紀元前二世紀末、後者であれば紀元一世紀中ごろ以後のことになり、二百年前後の差が出てくる。つまり、この「邪馬臺國」が武帝代まで遡れるのか、それとも後漢代にその姿を現すのかは列島史にとって基本問題なのである。
そこで秦漢代の用例を中心に検討しながら、「邪馬臺國」が落ち着く場所を探ろうというのである。今回はその第一回ということで、『史記』夏本紀に出てくる二例を示しておく。
1 「廼召湯而囚之夏臺」
2 「桀謂人曰 吾悔不遂殺湯於夏臺」
いずれも夏の桀王と殷の湯王に関連する。『索隱』によると「夏臺」は獄名で、「夏曰均臺」とする。また『廣雅』によると「獄 犴也 夏曰夏臺 殷曰羑里 周曰囹圉」(巻七上 釋宮・56)となっている。

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