越の大山

バックナンバーを辿ってみると2005年08月15日の日付だから、もう五六年前に「山」という中途半端なコラムを書いている。なにせ暑苦しい状況で書いた覚えがある。
その時頭にあったのは『萬葉集』の「み雪ふる 越の大山 行き過ぎて いづれの日にか わが里を見む」(3153)という歌であったが、幾つか不安が先立って言及することができなかった。今でも確信はないとしても、何歩かは進んだと思われるので、ここで読んでもらうことにした。
北陸には幾多の名山がある。だが前後からして、この「越の大山」は白山か立山を指すように思われる。私は、「行き過ぎて」という三句目から、白山と推測している。海上から見た可能性もあるわけだから確かでないものの、ここでは陸路で、都から越の口を経由して越中までの道のりを想定しているからだ。
白山を「越の大山」と呼んだとすれば、今度は「大山」をどう読むかという話になる。まず「おほやま」と訓で読むのでは坐りがよくないので、音読みすると、「セン」「サン」の二系統が考えられる。私は地域性と伯耆大山などから、「大山」を「ダ(タ)イセン」とし、一応「越(コシ)の大山(ダイセン)」と読んでいる。
そこで例の如く『説文』を引くと、「山 宣也」(九篇下001)である。段注は『廣韻』を採用して「所閒切」とする。声訓からして、「セン」の系統になるだろう。
これに対し『釋名』では「山 産也 産生萬物也」(釋山第三・001)となっている。これまた声訓とみてよかろうから、「サン」の系統が考えられる。『玉篇』の「所姦切」がこれにあたる。
中国国内の方言に関わる問題などを考慮しても、後漢代の前半は「セン」、後半は「サン」が中心だったと解してよいだろう。
「セン」の音は仏教伝来に伴って本邦に入ってきたとも考えられるが、山陰・北陸のみ特に仏教が盛んだったとも考え難いので、更に遡る必要があるように思われる。
以上から、多少不安が残るものの、この「越の大山」は後漢に遡れる痕跡の一つだと考えられないか。