私の幸福論(2) -愛情編-
私はかつて幸福というものを正面に据えて考えることは殆んどなかった。従って熟練した表現もできないし、また薀蓄があるわけでもない。
私はすでに存在していた家族や社会に迎えられて生まれ、育ってきた。私がどう考えようと、このことを受け入れざるを得ない。この中には、心楽しいものがある一方で、私を追いつめるような条件もかなり含まれている。私が幸福か否かは、私自身に関わる全てを私がどのように受け入れ、感じ、対処しているかにかかっている。今回は、物欲から離れ、愛情という観点から考えてみよう。
私を含め、多くの人は感情に左右されて生きているだろう。中でも、人とのかかわりで生じる軋轢や愛憎などがその大半を占めているのではないか。愛憎の形や表現の仕方は、自らが属する文化や時代によっていろいろである。ここで一般に愛情の定義をしようというのではない。ただ、私が感じている愛情の外形を示しておきたいだけである。
甲骨文や金文には「愛」という字はないようだ。そこで気に入っている『説文』という辞書を覗いてみた。やはり「愛」という字形そのものはない。ただ夊部に「愛」の原形にあたる字があって、「愛 行皃也」(五篇下179)となっている。
これだけでは何のことだかよく分からないので音符とされている文字を調べると、「惠也」(十篇下199)となっている、どうやらこれに手ごたえを感じる。「惠 仁也」(四篇下014)、「仁 親也」(八篇上004)である。
つまり、音符となっている字の仮借として「愛」が使われるようになり、「行く様子」という本義が廃れ、もっぱら「恵み」という義が使われるようになったとも解せよう。とすると、漢語文化圏では「愛 惠也」だったと考えてよく、更に「惠 仁也」「仁 親也」あたりへ連想された経緯がみてとれる。
「仁」は多様な意味を持つ語だとしても、ここでは「親」だから「親しい」義で、まあ「親密な関わりに至る」とも解せるのではないか。人と親しく交わって寛恕であり、その人のためになることをするわけだ。
字形はフォントの関係からお見せできないが、「愛」の音符を「旡」「心」につくる点に注意が向く。「旡」はまあ「息がつまる、食べ飽きる」の義だと考えてよかろうから、「愛」は、「自ら足りて、相手を許し、相手のためになるような行為をすること」ないし「そのような感情」あたりに解せないか。これに「自らの心を無にして」という意味が加われば、それなりに普遍性があるかもしれない。
私はどうしても「幸福」「愛」などというような言葉になじめない。だがまあ、こういった意味合いであれば、親族や異性などとの関係でもけっこう心楽しくやっていけるような気がする。