貧すれば鈍す

どう切り込んでいくのか、よく分からない。このテーマを思いついたのは、作業中に私自身が「貧」と「貪」を間違えている例を見つけたからだ。字形が似ている上に、類義だから誤ったのだろう。更に言えば、「貧」「貪」について長年「貧すれば貪す」だと思い込んでおり、これで一編を書いてみようと思い立ったのである。いやはや、何と言うべきか。
「貧」は「貧(まず)しい」という訓と「貧困」「貧富」などから「ヒン」という音であり、他方「貪」は「貪(むさぼ)る」という訓で「貪欲」「貪婪」などから「ドン」あたりの音で使われていることは知っている。
だが、これらが細かい文字で長文に入っていると問題のおきることがある。しっかり意味を斟酌しないで入力するから、両者を区別できなかったのだろうか。あるいは、単に私が分を過ぎた作業をしているからかもしれない。
ここらあたりまでなら誤りに気づいてすぐに修正すれば、まだまだ展望は開けそうだ。
ところが念のため「貧すれば貪す」を調べてみると、「貧すれば鈍す」となっており、文字が異なっている。「鈍す」を「貪す」と勘違いをしていたわけだ。
両者の音が似ており、「貧乏すれば、ことあるごとに貪る」と早合点していたことになる。当然ながらこれらの意味は異なっており、私は、長年誤解したまま使っていたのだ。
「貧すれば鈍す」の方は、「貧乏をすれば、気を配る暇がなくなり、心の働きが鈍くなる」あたりの意味だろうか。恐らく、ことここに至るまでに何回も知ったかぶりをしてきたことだろう。又もや痛切に、愚かな自分に気づかされることになった。
だからと言って、めげている訳ではない。この程度の誤りなどかつて数え切れないほどやってきたし、そのたびごとに恥ずかしい思いをしてきた。恥ずかしさに慣れることはないとしても、自らを戒めて、必ず再出発してきたのである。
これからも、やはり同じような間違いをするだろう。ただ多少居直って言えば、人の賢明さというものは、自らの誤りを正すことでしか得られないと思う。できれば、なぜ誤ったのかをたどってみるとよい。そうすれば同じような間違いを避けられることも多い。私は誤ることを恐れているのではなく、放置することを恐れている。