翰海(上)

私が古代の音韻を勉強しているのは、それ自身が面白いこともあるが、古代史の研究に役立つというのも目的の一つである。だが実際のところ、古代の列島人がどんな言語を使っていたのかはよく分からないのであり、増してその音韻を探ろうというのはまことに無謀にみえる。列島にどれほどの割合で倭人がいたのか、また倭人とは系統の異なる人たちがどこにどの程度展開していたのかも殆んど分からないから、全貌はおろか、その一端すら復元することは難しい。
今回は、最も信頼できる史料の一つである『三國史』魏書の倭人条に載っている「瀚海(翰海)」を取り上げてみようと思う。実は、いつだったか、野放図に扱ったことがある。
倭人同士はある程度意思疎通できていた可能性はある。倭種が中心になって後漢朝や魏朝と通行したのは確かだろうから、その時点では、彼らが優勢であったことは間違いあるまい。倭人条に記されている共通の官名から考えても、倭種の間である程度の共通言語があったとは解せるだろう。これを仮に「倭語」と定義をしておく。
だが列島にはこの数倍にもあたる小国家群があって、その出自は幾つも考えられる。まあ言えば坩堝の中で諸言語がぶつかり合い、徐々に共通語が形作られていったのではあるまいか。ある時点で、「倭語」が共通言語であったとは考えにくい。
倭人が優勢な時でもその他の系統の人たちとの間で、そもそも支配と被支配の関係が継続して成り立っていたのかどうか明らかでないので、倭語に強制力があったとは前提しにくい。仮に成り立っていたとしても、日常を制御できるはずもなかろうから、言語もまた小国家単位で血縁や地縁ごとに結びついていたのではないか。
見通しのたたないものを力や論理で道筋をつけられるはずもないから、まあ想像はこれぐらいにして、一歩一歩確かめていくしかない。『三國志』倭人條に、幾つかヒントになりそうな用語が記録されている。今回は、倭人が漢語を理解していると思える用例を取り上げたい。
倭人条で「名」の用例は3つ。東夷傳全体を見ても、「名」はそれぞれの種が自ら名づけていると解せる。
1 「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國」
2 「如喪人 名之爲持衰」
3 「乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼」
つまりこの三例は、いずれも一応倭人が自ら命名したと考えられる訳だ。この中の「瀚海」を取り上げたかったが、前置きが長くなってしまったので、中途半端ながら今回はここまでにしたい。