『説文』入門(52) -「禪」と「襌」-

漢字に詳しい人なら、こんなものはちゃんと区別できてあたりまえだと思うに違いない。少しばかり負けん気を出して言えば、かつては私も判別できなかったわけではない。ところが気がついてみると、ここしばらく「禪」「襌」を混同していたのである。
この誤りがいつごろまで遡れるのかは、存外、はっきりと分かる。『史記』を入力し始めの頃だから、昨年の春に行きつく。つまり、私は「禪」「襌」を一年近く誤ったまま気がつかなかった。一年は長い。言い訳のできない期間である。まあ例の如く、機能不全の私の頭脳では、間違いを避けられなかったことになる。今後こんなことがないように願って、両者を少しばかり比較してみる。
「禪」は「禪 祭天也 从示 單聲」(一篇上055)とあり、示偏の形声字で、「祭天也」と説かれている。
他方「襌」は「襌 衣不重 从衣 單聲」(八篇上355)とあり、衣偏の形声字で、「衣不重」だから「裏地のつかない単衣」と解されている。
まず音について確かめてみると、どちらも「單聲」で声符は共通しており、諧声字ということになる。だが諧声字だからと言って同音とは限らない。それぞれを確かめる他ないのである。
「禪」は『玉篇』が「市戰切」(示部三)である。『廣韻』は「禪 靜也 市連切 又市戰切」(下平聲巻二 仙二)で、段氏は「時戰切」(去聲巻四 線三十三)とするからややこしい。
他方「襌」について『玉篇』は「多安切」(衣部四百三十五)、『廣韻』は「襌 襌衣 都寒切」(上平聲巻一 寒二十五)及び「襌 圭襌 又禪讓傳受 時戰切」となっている。
つまり、『廣韻』は「圭襌」と「禪讓傳受」の両義を「時戰切」としている。「襌」の字形は「襢」を古文とする書き方から間違いなさそうだ。
段氏は、『廣韻』の段階で混乱していることに関し、「禪讓傳受」の義は『説文』に遡れば「禪」の字形で「時戰切」だと主張していることになる。
義について言えば、「禪」が「封禪」「禪讓」などの祭ごとで、「襌」が「襌衣」などで使われることに異論はあるまい。
私は、若いときに示偏と衣偏とで苦労したことがあった。ここ数年でも、「祇」「衹」などで手間取ったことを思い出す。確かにこんなことで誤るのは恥ずべきことであるが、昔から混乱があったとすれば、これも何がしかの経験になっているかもしれないのである。

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