よそ者の一言
多少未練がましいような気もするが、自分の位置を確かめるために書いておく。内外(うちそと)の境が同じ墓を守る血族や姻族、ないし共通の産土(うぶすな)を祀ることにあるとすれば、個人の資質は余り関係がないことになる。
ここで姻族について触れておくと、かつて子供を産めなければ、婦人が内なる者の壁を破れない場合があった。これは家系を続けることが根本の価値であった時代を想起させる。だがこれにしても、生き残れば、婦人が内なる者になることも望めた。
人と人のつき合いが、代を重ねて作りあげた信頼に基礎を置けるのは贅沢なことである。これは日々精進して作り上げてきた結果であり、単純に否定されるようなことではなく、むしろ一代ではどうにもならないほどの遺産である。その質を問わなければ、これ自身に何の問題もない。
他方、この遺産が強固であればあるほど、よそ者を排除する方向にはたらくことがある。としても内なる関係を保てるのであれば、よそ者が寂莫とした思いをするだけで、その繋がりに全くダメージがないようにみえる。この場合、立場を変えれば、逆に誰でもよそ者になってしまうことを忘れてはなるまい。
ところが近代になると、この価値観に危機が来る。若者が各地の都市へ集中するようになる。都市部においては、人の出入りが激しく、家同志のつき合いが何代も続くことは稀だ。他方で農村部は過疎化し、共同体自身の再生産ができず、世代を継いだつき合いが難しくなる。いずれにしても内外の境界が曖昧にならざるを得なくなるのだ。
大都市では、本来多くの人が同族などの枠を保ち難く、心身とも個人のつき合いが基本である。となると自力でつき合う者を選択し、その濃淡を決定しなければならない。これらを全て自らの責任で行わなければならず、逃げ場がない。個人に分断されてしまうと、人は疎外されていると感じることがある。
互いに個人として向かい合うにはそれぞれ自立している必要があり、長くつき合うには誠実さや節度が求められる。互いに交わした約束事は、明言したものであろうと暗黙であろうと、守られなければならない。常に個人としての完成度を問われ、人を人たらしめる哲学が必須となる。
ところが地方の小都市では、人の入れ替えがやや渋滞しており、すっきり個人の資質のみが問われる社会とはならない。価値観の産まれた土台が崩れてきても、価値観自身は生き残っているわけだ。
そこへ、私のように、田舎を好む者も入ってくる。ふらりとやって来た者としては、ここでは単なる個人であるから、どうしても力が及ばないところがある。もう少し個人と個人のつき合いを前面に出す方がやりやすいのになあ。なかなかこの世は生き難い。