任那日本府(1)

このテーマに関しては無視されたり、さまざまなイデオロギーに利用されるなど不孝な扱いをされてきた経緯がある。近年では「日本國」の成立を七世紀後半とする意見が多く、六世紀前半に「任那日本府」はあり得ないとされ、架空だと結論されることが多かった。ここでは基本をおさらいし、私なりの整理をしていく。今回は、「任那國」の登場とその時期を確認しておきたい。
1 『後漢書』『三國志』『晉書』東夷傳のいずれにも「任那」の用例はない。
2 『好太王碑文』に初めて登場する。
「十年庚子 倭滿其中 官兵方至 倭賊退口口口口口口口口來背急 追至任那加羅 從拔城 城即歸服」
十年条(400年)に「任那加羅」とあり、「加羅」と並列されている。欠字があるのではっきりしないが、「倭賊」を「任那加羅」まで追跡して行くのであれば、「任那」「加羅」はいずれも韓半島南岸の小国家と読める。倭と任那・加羅が敵対しているのであれば海へ退却すればよいから、これらは互いに敵対していないとも読める。この時点で、これらを「新羅」と同等に解してもよいかどうか。
3 『宋書』倭國条には四例あり、いずれも自称ないし「倭國」が宋朝に除正された將軍号の中に登場する。それぞれ「六國」ないし「七國」中の一国だから、「任那國」と解してよかろう。
ⅰ) 「太祖元嘉二年(425年) (中略) 自稱使持節都督倭・百濟・新羅・任那・秦韓・慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」
ⅱ) 「二十八年(451年) 加使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事 安東將軍如故」
ⅲ) 「世祖大明六年(462年) 自稱使持節都督倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王」
ⅳ) 「順帝昇明二年(478年) 詔除武使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」
四例共に、倭国が任那を自らの支配下ないし勢力下にあると主張し、宋朝が公式にこれを追認している。確かな史料としては、以上の五例である。
『碑文』の初見例が400年だから、恐らくは四世紀末には「任那國」として登場していただろう。だが『後漢書』『三國志』『晉書』のいずれにも記されないから、その前身が如何なるものなのか分からない。これ以後五世紀末まで、倭国の勢力下にあると自他共に認められていたと解せる。
いずれにしても「倭國」との関連で登場するのであって、「日本國」とはまったく関係しない。

前の記事

よそ者の一言

次の記事

ああ楽しかった