平和主義の試練
少なくとも現在において、平和を望まない人はいないだろう。この前の大戦では手痛い敗北をきっし、若者のみならず大勢の人が死傷した。戦後は焼け野が原から出発したところも多い。
戦後処理に様々な課題を残しながら、新憲法下で国造りがはじまった。平和でありさえすれば、日常の営為に集中できる。多くの人は何とか食えるように必死で働いた。
朝鮮特需で回復軌道にのり、高度成長で経済が拡大に転じたと考えてよい。この間、官僚制度や「自衛隊」などを整備し、国家としても体裁を整えてきた。
バブル崩壊後は、小さな波が交互に来るも、スタグフレーションの傾向から抜け出せないでいる。が、日本はすでに成熟した経済を営む成熟した国家と考えてよさそうだ。
敗戦後は、直接に他国と戦争状態になることもなく、まずまず平和な時代を過ごしてきた。そうすると、これからも平和に暮らせるだろうと思い込んでしまう。
だが、残念ながら平和というものは一方の努力や自制のみで確保できるわけではない。また二国間の自制で平和が保てるとも限らない。多国間の矛盾が解けなければ、互いに緊迫した関係になることがある。
大戦後の世界体制が戦勝者中心になるのは仕方がない。東アジアでも同様であったが、敗戦国である日本がいち早く痛手から立ち上がることができたので、やや捻じれることになった。
戦後における日本国領土の策定にしてもすっきりせず、アメリカは今猶沖縄で大規模な基地を自由に使っているし、ロシアは北方四島を占拠したまま最大の付加価値をつけようとやっきである。
これらに対し、韓国及び中国はその経済発展に比例して、遅ればせながら戦後体制の更なる利を得ようとしているかに見える。両国は、軍事力を含め、近年ますます国力を充実させてきている。竹島に対する韓国の態度は、現状では方向感覚に問題がありそうだが、南北統一後の姿を暗示している。中国が尖閣諸島の領有権を主張するにしても、やはり戦勝者の立場を貫こうとしているだろう。
ロシアによる四島の実効支配を横目に見ながら、両国がそれぞれ竹島、尖閣諸島の領有を主張しているのは、戦後体制を否定し、新たな国境線を引こうとしている意味がある。アメリカがこれらを黙認すれば、前方展開の大義を失い、東アジアにおける体制が流動化する。
米中の真意は不透明ながら、しっかりやれば、今こそ日本が敗戦国の定義から解放される転機になりうる。行き過ぎには制御が必要だとしても、力を背景にしないモラルは亡国に行きつく。内外から、日本が独自に領土を保全する覚悟があるかどうか試されている。