島谷用水(4) -水漏れ-

書きはじめた以上は、前へ向かって書くほかない。気になったところから片づけていくとしても、的をついているかどうか不安がある。
今回は水漏れの話で、かなり難しい。取水口辺りで岩盤を削った可能性が残っているけれども、用水の側壁は殆ど石組みだったと思われる。小石や割石、或いは粘土などを使って如何に緻密に組んだとしても、時間が立てばこれらは落ちてしまうだろうから、水が抜けていく事は避けられない。
長老の話によると、現在の三面コンクリート化以前は、用水の底面は主として小石であり、ところどころに白砂が堆積していたそうだ。彼の話に間違いはあるまい。
かつて用水にはウナギや小魚がおり、毎年蛍も出ていたという。白砂の中にはシジミがいたという話は既に書いてきたところであり、ここまでくれば生態系の一端を担っていたと言ってよいかもしれない。その反面、床面が小石や砂だとすれば、下へも相当な水が漏れていただろう。
私は、勾配からして、造成当時から島谷用水が相当な流速だったと推測している。だからと言って、障害物を置いて遅くしたとは考えていない。遅くすれば、床面に泥などが堆積して漏れる量が減るとしても、数年で用水の底面が上がってしまい、流量そのものが減ってしまうだろう。
ここのところの経験では、障害物を取り除いて流量を確保すれば、底面がどんどん削られていく。用水本来の流量からすれば、下への漏れはさけられまい。
ほんの四五十年前の話だが、特に旧庁舎の前あたりでひどく漏れていたらしい。原因が側面なのか床面なのか分からないけれども、だだ漏れの状態だったという。これが原因で、新町あたりから流量が少ないとクレームが出たそうだ。新町の場合は、防火並びに生活用水としての役割が考えられる。桝形以西の地は田園地帯だったようで、主に農業用水として、安定した水量を必要としていた。
立ち上がりの両側面と底の三面をすべてコンクリートにしたのはこの後のことである。
現在の乙姫川の床面は丸い川石を敷いているが、やはりコンクリートでその間を覆っている。同様に水漏れ対策だろう。
これらの話からすれば、江戸時代もまた水量を確保することが難しかったのではないか。また、私は用水と乙姫川との水位にあまり違いがなかったと考えており、工法上分流することが難しかったと推察している。
以上から、絵図通り、江戸時代には乙姫川が武洞川と同様に島谷用水へ直接合流していたと考えたい。分流したとしても、慈恩寺山崩落以後ではあるまいか。
これらから、乙姫川、武洞川のみならず赤谷川もまた用水へ直接合流していた可能性を僅かでも残しておきたいのである。

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