秋の夕暮

いつかどこかで聞いたようなテーマであるが、他に気の利いたものが思いつかない。今日は夕方の散歩をしてきた。曇っていたのだろう、月は見えなかった。月が見えない夕べは詩になりにくいので、私に似合っている。
冬至はまだ先だが、少しばかり夏の記憶が残っており、日暮れがどんどん短くなっている気がする。すっかり暮れてしまう直前で、山の稜線より上はまだ少し明るいものの、下はどこを見ても同じような濃紺にも見える色になっていた。
昼間の散歩なら草花の色を楽しめるし、ムラサキシキブの紫色の実や、ドウダンツツジの鮮やかな色も楽しめる。
ところが日が暮れるにつれて、すべてが黒ずみ、ほとんど何も区別できない。面白みに欠けるからか、どうしても足早に歩いてしまう。紅葉した山々も、暗くなってしまえば、どこも同じである。
晩秋の夕暮れともなると、寂莫たること限りない。足早になるのは本当のところこの精神状態が原因かもしれない。
歩いていても、人肌を感じることがあれば、肌寒いことも苦にならないのかもしれない。また秋の実りが脳裏にある人なら、それなりに冬を迎える準備ができつつあり、秋冷を心地よいと感じられることもあるだろうか。
ところが無芸大食の身では、そうはいかない。何とか暑さを乗り切って一心地ついたばかりなのに、すぐに寒さが身に染むことになる。
暮れなずむ川面に人がいる。相当水が冷たくなっているだろうに、川で網を打っている。普段なら立ち止まって何を捕えているのか聞くところだが、足を止めただけで通り過ぎてしまった。
私はどうにも偏屈らしい。そんなに寂しいのであれば、どこかに寄って世間話でもすればよいのに、こういう時にはその気にならない。
橋を渡って対岸から見ると、自分の歩いてきた径が薄ぼんやり見える。桜の葉は殆ど落ちてしまっているが、ケヤキは紅葉しながらもまだ葉がしっかりついていた。すがるようにケヤキを見ていたが、落ち着いてみると、葉がすっかり落ちた桜の姿に好感をもてた。
月がなくてもそれなりに薄暗ければ夕暮れであるが、すっかり暮れてしまえば夜である。

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