平凡と非凡
私は平凡である。若い時のごく一時期を除けば、如何なる分野であれ、非凡であることを望んだことはない。いろいろ理由がありそうだが、最も説得力があると思われるのは私が実際に凡庸だからである。
平凡と非凡はどのあたりで線を引くのだろうか。どんな分野でも、奇抜で目新しいものは人を驚かす。今までにない斬新さを伴うのであれば、その時には非凡に見える。その質が良ければ、以後も使われ続け、新たなスタンダードになっていく。非凡なものが平凡になっていくわけだ。
毎日目にする景色や相も変らぬ日常生活ではどうだろう。周りの人と同じように考え、同じように行動すれば平凡で、そうでなければ非凡と考えられるかもしれない。だが、例え同じような行動をしているとしても、それぞれの人が同じように考えているとは限らない。
さして変わりばえしない視点や価値観の中にも非凡が隠れている。日々新ただとすれば、例え同じように見えても、その時々に新たな視点で考えていることになる。見た目には変わり映えしないとしても、まとまった時間がたつと、すっかり様相が変わってしまう。
岩に落ちる滴はそれ自身珍しいものではないが、絶えず落ちるだけで、岩を砕いてしまうことがある。
日々精神と肉体を鍛錬し、自らの足元を確かめ、視野を広げて事に当たる。これらは平凡に見えても実は非凡な営為であり、考え方が変わるように見えても変節とは言えまい。「士分かれて三日、即ち更に刮目して相待すべし」となる。
この辺りでは、私は変わった人である。何処から来たとも分からない馬の骨であり、なかなか警戒感をゆるめられることはない。ところが見た目は地味であるし、やっていることも目立たない。特に何か地元に貢献するわけでもないし、普遍性のある仕事をしているわけでもない。地元に溶け込んでいるように見えれば見えるほど、変わった人に見えるらしい。
だが、これを非凡とは呼べない。このような生き様の人は、結構たくさんいるものだ。
私がもう少し派手で、目立つ仕事をする人間であれば、かえってよそ者として自然に見えるのかもしれない。だが、日々の勉強はいい加減であるし、歳を重ねても事に当たって沈着冷静ということもない。
こうやってみると、平凡と非凡の違いは物事の裏表の関係に近いかもしれない。非凡なものこそが後に当たり前のものになっていく。非凡の積み重ねが平凡なのである。他方、平凡な日常は心がけ次第で非凡の場になる。新たな社会は求めても得られない。今日一日が新たであるかどうかが大事なのだ。