瓢岳(2) -八王子峠-

星の宮神社と那比新宮の間に八王子峠がある。前回紹介した『濃州郡上郡那比之郷巖神宮大權現之傳記』は十四世紀中ごろの史料で、那比に「八王子権現」があったことを記すのに、遺跡などは全く見つかっていない。私は、この峠の名称こそが八王子信仰のあった痕跡だと推察している。今回は、これを取り上げてみたい。
しばらく途切れているが、まず美濃市の大矢田神社から話が始まる。同社伝によると、養老二年(716年)に泰澄大師が天王山一帯を開基し、天王山禅定寺と号した。無論これらは伝承であるから必ずしもそのまま史実だとは言えないが、泰澄の伝承や寺号からして白山信仰と無縁とは考えられまい。
祭神は今のところ建速須佐之男命と天若日子命などとされている。祠には牛頭天王が祀られていたとあるが、むしろこれと習合していたのではないか。明治初年の神仏分離及び廃仏毀釈によって、祭神が牛頭天王から建速須佐之男命に代わった例が多い。私は、天王山の名や同社に伝わる牛頭天王の伝承から、牛頭信仰が習合していたと解している。
話が前後するが、比叡山延暦寺を守る地主神として日吉山王権現二十一社が祀られている。二十一社は、上七社、中七社及び下七社に分類されている。
上七社はまた山王七社とも呼ばれ、その一つとして、八王子山の山頂に山王権現または牛頭天王の眷属である八人の王子が合わせ祀られている。本地は千手観世音菩薩である。
八王子山は京と近江国の境近くにあって、また牛尾(うしお)山とも呼ばれ、初穂を供えて祖先を祀る山だったようだ。これが天台宗山王権現の信仰体系に取り込まれたのだろう。
ここでは触れないけれども、中七社の一つに下八王子社が東本宮参道に祀られている。ここで、この本地が虚空蔵菩薩であることを一応示しておく。
さて八王子の内訳ということになるが、一般に牛頭天王が頗梨采女(はりさいにょ)との間に設けた八人の王子と解される。八王子権現の信仰はこの八王子を中心に、更にこの眷属を含む。
白山信仰は早くから天台宗の波に洗われており、少なくともこの地における牛頭天王及び八王子権現の信仰は越前を経由して北から伝わったのではなかろうか。
牛頭天王と八王子の信仰でタブーとされる「牛尾」についての取り扱いは難しい。牛頭天王を祀るのであれば、牛が信仰の対象になりそうなものなのに、ここでは高光の鬼退治伝承に関連して、牛そのものが忌みの対象になっている。『那比之郷巖神宮大權現之傳記』には「從四方麓口牛不入奧 依之号牛返也」の記載があり、この辺りには実際に「牛返し」の伝承もある。
以上から、高光を前後して山王系の八王子権現が零落し始め、南伝の弥勒信仰や系統の異なる虚空蔵信仰がこれに代わり始めたと考えられないか。

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