瓢岳(1) -地名の変更-

どのような構成で読んでいただくか、いろいろ迷っている。まだそれほど纏まっているわけではないが、やはりシリーズ化するのが分かりやすいと思われるので、瓢岳を中心に取り上げていくことにする。
今回は瓢岳をとりまく地名の変更を取り上げ、これに対立軸を入れて、歴史学の俎上にのせる試みである。
地名を改めるとなれば、たった一つであれ、その地区へのインパクトは相当なものだ。かつて地名が変わることは、その地にとって単に呼び名が変わるのみならず、その背景で大きな変動を伴うことが多かった。
災害などで自然地形に変化が生じたり、主たる生業が変わるなどによる合意の上の改名なら、割合軋轢のない理由と言ってよい。ところが力づくで地名を変更するとなると、これを進めようとする勢力とこれに違和感を持つ者達の間に争い事が介在することになる。そして、彼らの多くは勝利者と敗者に分かれる。
史漢などを読むと、始皇のみならず景帝や武帝などによって相当数の地名が改められていることが分かる。その後も、漢王朝を簒奪した新の王莽の時になると更名が凄まじい。
これからすると、近隣の主要な地名がすっかり変わってしまう背景には、大きな変革があったと考えてよいのではあるまいか。
『濃州郡上郡那比之郷巖神宮大權現之傳記』という中世史料に、藤原高光に関連して、瓢岳付近の地名が変わっている例が載っている。
1 鬼や鵺を退治し泰平となったので新たに「福部(ふくべ)嶽」と命名する
2 大谷村を粥川村とする
3 岩屋洞を新宮とする
4 藤谷を本宮とする
この四例は、鬼退治の伝承に関連しており、いずれも瓢岳とその北側にある。この他にも八王子権現や大日堂の史跡が消えてしまっており、どうやらこれらはすっかり零落したらしい。
高光は歌人であり、中央の史料ではここで扱うような武人の側面は見当たらないので、単なる貴種譚として全て伝承に入れてしまうこともできる。が、地名が大幅に変わっていることを認めれば、高光の伝承が何らかの史実の覆いとして重なっているにすぎないとも解せる。
一連の地名変更が主たる勢力の交代を表すと考え、可能な限りそれぞれの勢力を析出したいのである。うまく伝承の骨格を取り出して歴史の転換点を示したいが、どうなりますことやら。

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