コラム

私はコラムらしきものを相当数書いてきたが、これまで、これを定義したことはない。顧みると、似たようなテーマや書き方を散見する。自分なりの文体が出来上がりつつあるとも言えるし、すっかりマンネリ化したとも言えそうだ。
コラムは本来「柱」「円柱」などの義であり、引伸で円柱状のものを表すようになった。ここで言う「コラム」は、新聞などの段組みや小欄を柱状に例えたものと考えておく。
コラム状の段組みだからスペースに限りがあり、字数も決まってくる。ここでは何枚書いてもよいことになっているが、コラムである以上、一気に読める量でなければなるまい。
俳句であれば、たった十七字で微細なことから壮大な情景を、細やかな愛情から神の静けさまで描けるそうだ。とすれば、コラムといえども無限の表現ができることになる。細かな内容は知らないけれども、コラムは文芸であるという主張を聞いたことがある。書き手の矜持を示すと共に、読み手としてもまた文章を読む以上、それなりの水準を求めているというわけだ。
文芸とすれば、話題の選び方から話の進め方や終わり方まで、寸分の狂いも許されないような気がする。深い知識を背景に、書き手がそれぞれのテーマを自在に切って見せなければならない。練りに練ったものでなければ、その内容に深みを求めることは難しいからだ。
また書き手に力量があれば、文体も多様だろうし、一人が書いていても確かに飽きがこないかもしれない。だが文体は個性そのものであって、多様にするというのは誰にでもできるわけではない。
これらは書き手の覚悟としては敬服できるとしても、私には、表現方法としてコラムに拘る必要があるとは思えない。
字数に制限があれば、精密な論証はおろか視野の広さを求めることも難しい。私の力量では、隙のないエッセイなどは無理である。テーマが多層構造になったものは、一回分では骨組みだけを描くことで一杯であるし、枝葉をつけようとすれば何を書きたいのやら皆目分からなくなる。よほど手慣れたテーマで自分なりの整理ができていれば、少しばかり内容を盛ることができる程度である。
ことほど左様に、文芸としてならば相当な準備が必要であり、少なくともプロ化する必要があるように思う。これでは、市井の人間が気軽には文章を書けないことになる。
一人が書き続ければ、どうしてもテーマにその人の匂いがついてくる。これが避けられないのは、それぞれ自らに拘る他ないからだ。が、人の拘りというものは、日々新しく生きているかどうかで、その鮮度が決まるような気がする。
コラムを多様にしたいのであれば、個人の力量に頼らず、様々な考えを持った人物を集めればよい。なら、もうやめろと言われるまで書くか。

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