瓢岳(3) -大日堂(上)-
今回は「巖神宮大權現之傳記」に記されている「大日堂」を取り上げ、「八王子權現」につづき、まず天台宗によって瓢岳の信仰が取り込まれたことを示していきたい。一回では混乱しそうなので、上下に分けてみる。さっそく「傳記」の該当部分をみていだだこう。
「從嶽鬼門那比村八王子權現并高賀山巖神宮寺二閒手大日堂宇婆御前宮」である。少しは楽しんでいただきたいが、歴史学ともなると、解釈する前に史料の素性を確かめる必要がある。これをまた楽しめる人は初心者ではない。
「新宮別當福壽院主 空叟淨覺」という人物が、觀應二年(1351年)に記したと書いてある。手慣れた漢文というわけにはいかないが、和風ながら、なかなかの文章である。本文は『古語』『古傳記』『古記』の三部構成になっている。残念ながら私はいずれにも不案内で、どの程度信憑性があるのか見当がつかない。
ただ、『古語』『古傳記』については、「星宮大權現傳記」にもほぼ同じ記載があるので、当時少なくとも星宮と新宮が共有していた史料とは言えそうだ。
「星宮傳記」の方は『古語』『古傳記』の区別がなく、『古語』を引用する形で始まり、両者が一体化されている。これに対し「巖神宮傳記」の方は別に『古傳記』を引用する形になっており、形式が整っている。更に『古語』『古傳記』両者の内容が星宮を中心とした記載なので、私は「星宮傳記」を先行史料と判定している。とすれば、『古傳記』は「星宮大權現傳記」を指している可能性が出てくるわけだ。
「星宮傳記」には天暦元年(947年)の署名があるものの、年代には不安があり、いろいろ検討しなければなるまい。今のところ「守護領地」などの用語から、この史料自身は十三世紀以後の成立ではないかと推測している。
『古記』は「淨覺」が新たに採用したもので、新宮もまた天暦元年の創建としている。史料の詮索はこのぐらいにして、私なりに訳すと以下の通り。
「嶽より鬼門の那比村に八王子權現並び高賀山巖神宮寺、二閒手に大日堂宇婆御前の宮」
少しだけ説解しておくと、「嶽」は瓢岳、鬼門は北ないし北東、那比村に八王子権現並びに新宮がある。二間手は那比にあって、宇留良への分かれ道。「大日堂宇婆御前の宮」が今回のテーマとする「大日堂」である。やっとたどり着いた。
「宇婆御前の宮」は全く素性が分からない神様だが、どうやら那比本宮の上にあった「兒の宮」に対応するらしい。
私は大日堂には大日如来が祀られていたと解している。とすれば、「宇婆御前」の本地が大日如来であったことになる。スペースがないので、論拠は次回へ譲る。