方言と歴史学(10) -音便-

私が引っ越して以来、「谷戸(たんど)」を含め、郡上南部の地名に音便が使われる例が多いことをずっと腑に落ちない気分で過ごしてきた。今回は撥音便につき、美並の大木伝承と白山信仰を介して考えてみたい。
郡上美並にある福野の伝承では、一本木という所に杉の巨木があって、影もまた巨大であった。その本は根(ね)村にあり、幹は半在(はんざい)を越え、末が木尾(こんの)に届いたのでそれぞれが村名の由来になったとする。これが根村などでは大木を切り倒す話になっており、本が根村に、幹が繁在(はんざい)に、末が木尾にあったと云う。那比の神戸木(かんどぎ)にも同じような大木譚が残っている。
郷土史家の池田勇次氏(『遊悠』)によると、木尾は慶長六年(1601年)の「美濃一國郷帳」では「こんのふ村」と記されているそうだ。これからすると、「こんの」以前に「こんの-ふ」「こんの-う」のように読まれたことになる。
正保二年(1645年)の「遠藤但馬守領分知行目録」では、「祢村」「半才村」と並び、「木尾村」と表記されている。
円空の「粥川鵺縁起神祇大事」では、「根尾登岩窟(こんのをのぼりのいしのくら)」と仮名がふられている。「根(コン)-尾(を)」でよければ、これに属辞を加えて「コン-の-を」とし、更に「こんの-を」という構成にしたのだろうか。とすれば判じ物のごとくである。或いは「根」をそのまま「コン」と読み、「根村の尾(末)」と理解していたのかも知れない。
木尾に近く、美濃市との界に母野(はんの)という地名がある。「ははの」から「はんの」になったと言われている。やはり池田氏によれば、これについて泰澄にまつわる伝承がある。要約すれば次のようになるだろうか。
養老年間、泰澄大師の母が大師の後を慕い郡上へ入る。現在の母野から木尾へ向かう途中に「険しい坂道」があり、たいそう難儀した。日も暮れたので、麓へ引き返し一泊した。そして休養した麓の冷泉で肩の凝りをとったので「こりとりの池」と言い、その一帯を母野(ははの)と言うようになった。
ここで言う「こりとりの池」につき、或いは「垢離取(こりとり)」と関連するかもしれない。母野の近くに白山信仰の前宮とされる洲原神社がある。かつて同社では十一月にも大祭が行われ、これを「垢離取祭(こりとりまつり)」と呼んでいた。残念ながら、敗戦後は休止されている。
楼門から長良川へ降りたところに「神石(かみいわ)」と呼ばれる大きな岩があり、これが依り代になったらしい。斎主がこの岩のもとで何度も水垢離(みずごり)を取るというので、「垢離取祭」と名付けられた。斎主は「こりとり」を繰り返すうちに、神がかりになるほどだったと云う。斎主は宮司がやったようだが、当初からそうだったのだろうか。
「垢離取(こりとり)池」とすると、泰澄大師の母堂がここで体を清め、再度木尾方面へ向かったことになる。まだしっかり踏査していないが、私は母野から片知山、瓢岳のルートも修験の道として使われていたと推測している。とすれば、母野の伝承は瓢岳信仰圏の女人結界を示していることにならないか。

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