鈍刀

道具は現場で役に立つものでなければならない。鋸であれば、しっかりした鋼でうまく「あざり」がついていれば気持ちよく切れる。ナイフなら、小さなものを削るにしても、鋭い刃のついたものがよい。だが、これらはいずれも一回きりを前提にしているような気がする。
私は、どういう訳か、今まで鋭い切れ味を優先することはなかった。意識してそうだったというよりは、何となく鈍さを残す方を選んできたように思う。これは実際の道具でもそうであったし、譬喩としてもそうである。
切る道具としては鋸やナイフ以外でも、鉈や鎌など外で使う道具、庖丁や鋏など家の中で使うものなどが頭に浮かぶ。
私は、若いころ、少しだけ山仕事をやったことがある。鉈や鎌は必需品で、特に鉈の研ぎ方は使う人の好みがよく出ると思う。研ぎ方によって仕事が円滑に進んだり、疲労困憊してもはかどらなかったりする。
山仕事は、通常朝一に現場まで行き、一息入れてから作業を始める。十時ごろに一服、作業を再開して十二時前後に昼めしを食べて休憩する。そして午後一から三時まで、一服した後気を引き締めて三時ごろから五時までの作業が多かった。
私の場合、鋸や鉈は気になるところがあれば夜のうちに段取りし、翌朝の作業を始める前に最終チェックしていた。私の技量では切れ味を優先して刃を細くするには時間がかかるし、鉈を多く使う日は、始めは切れてもすぐに重くなってしまう。それに生木の節が堅かったり、石が挟まっているような場合は、刃こぼれすることが多かった。作業時間からして、最低二時間はそれなりの切れ味を保たねばならない。となると、ただ鋭いだけでなく、安定した切れ味で相当回数を使うことに耐えなければならない。こうなると切れ味の好みや、研ぐ技量が大事になってくる。
となれば、先達の研ぎ方をしっかり学ぶべきだとなる。ところが私は、先輩のやり方を参考にはしても、誰かに師事したことはない。少ない経験でも、私なりにもがき、自分流で研いできた。生意気だったが、他に選択肢があるように思えなかった。
どうやら、この傾向はそのまま私の精神生活にも通じているらしい。知性に明晰さや切れ味というようなものがあるとしても、私は殆どこれらに魅力を感じたことはない。高嶺の花だったこともあろうが、これらを誰かから学ぼうという気になったことはないと思う。そんなものでは、根深い愚かさを炙り出して捻じ伏せられないように感じてきた。時に鋭い論理が必要だとしても、自らの原則に拘って愚直に生き抜くことには及ぶまい。
道具は日常の用に耐えることを最上とする。鋭さが鈍さに勝るとは限らないのだ。この歳になって、自分に鈍さに愛着が湧いている。それにしても、冴えがないねえ。