色気
書き始めたものの、さっそく行く方を失ってしまった。何だか浮ついているようで、どうしても引け目を感じてしまう。だが、生きている以上は避けられないテーマのような気もするので、意を決し書くことにした。色気について点描するからと言って、枯れ枝に花を咲かそうというわけではない。気楽に読んでいただければ幸甚である。
周りを見ると、心安く付き合ってきた人物が随分死んでしまった。強がっていても、つくづく人生が残り少なくなってきたと感じる。余命をどう生きるか。
確かに生身である以上、人恋しいこともあるし、ぬくもりが心地よいこともある。若い時なら、何にも増してこれらを異性に求めるということがあるかもしれない。これなら道理にかなっており、飾らずとも見栄えがよろしい。
壮年期には勢いがある。生命力みたいなものがみなぎっており、これを無理に抑える必要はない。まず人生の花という時期にあたる。力が足りないことでも、いずれ解決してみせるという根拠の薄い自信が持てる時期かもしれない。
しかし歳をとってしまうと、溌剌とした人も沢山おられるが、生き物としての活発さやみなぎる自信というものが薄れていく人もまた多いに違いない。
漢の高祖を苦しめた匈奴の習慣では、こういった老弱の者を軽んじたと云う。麒麟も老いては土馬に劣るというわけだ。
他方農耕社会では、たとえ建前としても、老年の者を知恵あるものとして割合大事にしてきた。
あなたはどちらがお好みだろうか。私は実際のところ前者に含まれる。いずれにしても行き過ぎは社会を疲弊させるだろう。
落ち着いて周りを見ると、男女を問わず、歳を重ねても艶のある人を見るのは面白い。段々と枯れていくことは仕方がないとしても、無理をせず、その時々を楽しんでいる風情はなかなかよいものだ。
完成度の高い人物であれば、この世の細々したことに拘らず、するりするりと立ち振る舞うことだろう。ファッションも瀟洒で気品があるに違いない。
しかし私の場合は、片意地張ってはすぐ疲れ、理屈をこねれば空回り、夢に近づいたと思えばいつも蜃気楼である。
そろそろ中老へかかってきたからか、いろいろ準備して、色気を保とうという気が起きない。手にしようと思うことすら面倒である。すっかり老いぼれたとまでは行かないとしても、生き物としての生臭い存在感が薄れてしまったのだろうか。
老人には老人なりの花があるそうだ。身の丈を弁えた上で宿題に取り組みたいし、身ぎれいにして、なるだけ加齢臭をまき散らさないようには心がけたい。