瓢岳(7) -粥川村(下)-

前回、天暦年間の粥川村への改号には実体があると考えた。旧名とされる「大谷村」から「粥川村」になったわけだから、「大谷」から「粥川」に変わったことになり、かつて粥川が大谷と呼ばれていた可能性がある。しかし、「藤谷」が粥川と呼ばれるようになったとする伝承も残っているらしい。
大谷は、「親(おや)谷」あるいは「祖谷」かも知れない。越前町の「大谷(おおたん)寺」との関連も気になる。後者の藤谷説と関連するのかどうか、『傳記』には「藤谷改号本宮」とあり本宮の前号にもなっている。もう少し掘り下げる必要があるかもしれない。
以下、改号を異なる観点から傍証してみたい。ここでは三つ。
1 粥川への改名が『文德實録』の齊衡二年(855年)あたりでなく、なぜ天暦代(947年-957年)と約百年遅いのか。
『倭名類聚抄』によると、郡上郡は郡上郷、安郡郷 和良郷 栗栖郷の四郷に分けられている。郡名のもとになったと思われる「郡上郷」は長良川本流で旧吉田荘あたり。「安郡郷」は明らかではないが、私は吉田川上流部の旧明方村にあたると解している。とすれば、長良川左岸になる。「和良郷」は現在の和良で郡上の東南、「栗栖郷」は中央部にあってやはり長良川左岸を中心とするだろう。
私は、たびたび登場する『那比之郷巖神宮大權現之傳記』では「那比之郷」であって、「那比之村」ではないことに戸惑う。そのまま「那比之郷」で郡上史を構成してみたい衝動にかられる。
つまり、上記の四郷は九世紀半ばに朝廷の行政権が施行されたが、那比の郷では旧勢力がこれに強く抵抗していた。鉱山の利権や宗教上の対立などが考えられる。粥川もまたこの那比の郷に関連していたのではないか。
とすれば、上之保道が栗栖まで左岸を貫いていることも理解できるし、四郷が長良川左岸を中心とすることにも合点がいく。そして右岸にある那比の郷で十世紀中ごろに一連の地名が変わることにも整合性が生まれる。
2 「和良」「気良」が『古事記』の仮名であること。「安郡」は漢語音を原形にし、「郡上」は音借と漢語音、また「栗栖」は訓と音借と考えられる。これらに対し「和良」「気良」は、「那比」「宇留良」と同系の仮名である。そう言えば、和良にも鬼の伝承がある。
武儀の郡衙に渡来系、中でも百済系の官人がいたのではあるまいか。『正倉院文書』に近江国の人として「錦村主特萬呂」、別文書で「淺井郡人錦村主淸常刀自」などとある。最古の写経をした「錦村主實貫」もまたこの一族かもしれない。
3 杉原地区の熊野神社に、応和元年(961年)、紀州熊野の比丘尼俊応が当地を訪れた伝承がある。天暦代の直後にあたり、偶然にしては出来すぎている。改名後、瓢岳信仰へ南から様々な要素が入り込む第一波と考えられないか。

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