瓢岳(8) -那比の新宮(上)-

書き始めると、周りが見えなくなるらしい。もう少し時間をかけて取り組めばよいものを、精神にゆとりがないからか、余命が残り少ないからか、拘りすぎる傾向が出てくる。
『巖神宮大權現之傳記』(淨覺 1351年)には天暦年中(947年-957年)の事として、高光が禅定峯(福部嶽)を均しく平らげたので、「大谷村改号粥川村、岩屋洞改名新宮、藤谷改号本宮」とされている。
「號」「号」「名」の用例が気になるが、ここでは「岩屋洞を改め新宮と名づく」と読み、新宮を公式名称にしたと解しておく。粥川村や本宮と比べ、元の名である岩屋洞との確執が強かったからではないか。「岩屋洞」についてはこの他、
1 高光が大谷村に数日逗留したあと、「而或時岩屋洞 藤谷」とされ、岩屋洞や藤谷へ来たこと。
2 悪鬼が「岩屋洞深山」や「藤谷絶頂」などにいた。
とする用例がある。そう言えば阿瀬尾から新宮へ越す小峠を今でも「鬼が坂」と呼び、鬼がこの峠を踏んだと伝えられている。
『傳記』はこの後、「從厥以來此邊而雉不得鳴事 杜鵑雖渡來不叶鳴事 從四方麓口牛不入奧依之号牛返也矣」と続く。
少しだけ説解しておくと、「從厥以來」は高光が悪鬼を退治して以来、「杜鵑」はホトトギス、「牛返」は「うしかえし」。
「これ以来福部嶽あたりでは雉が鳴くことはないし、ホトトギスが渡ってきても鳴くことは叶わない。四方の麓口より牛がこれ以上奥へ入れず、これを牛返と号す」あたりに読めるだろうか。
文明三年(1471年)七月、「領主」の東常縁と飯尾宗祇がこの地を訪れ、
神もここに幾世か夏の杉の杜 常縁
みやゐはなれぬ山ほととぎす 宗祇
という歌を残したとされる。私は、飯尾氏と那比との縁から、これを史実とみている。「みやゐはなれぬ」は難しいが、「はなれ」を下二段活用とみて「宮居-離れぬ」とすれば、「宮居を離れない」とも解せる。
とすれば、那比へ渡ってきたホトトギスが新宮を離れないと詠んでいることになり、史実なり伝承なりを踏まえている可能性がある。一方で自らをホトトギスになぞらえているとも読めるし、他方で悪鬼は「而鳴聲如雉 遠音似杜鵑」でその遠吠えがホトトギスを連想させるから、「悪鬼が宮から離れぬ」とも読める。後者なら宗祇は、東氏から聞いたのか或いは飯尾氏に伝承があったのか分からないけれども、新宮が悪鬼の最も跋扈した地であることを示唆していないか。新宮には他にも肺腑を抉る話がある。

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