高賀山(5) -稚児宮(上)-
私にとっては厄介なテーマで、何年たってもすっきりしない。少しばかり整理できたところもあるので、幾らかまとめておく。
まず、『巖神宮大權現之傳記』に登場する「兒宮」を現在の峯稚児神社とみてよいのかどうか。現在峯稚児神社は高賀山に至る稜線上にあり、高賀社の奥院とみなされている。かねがね私はこれに疑問をもっている。根拠は二つ。
一つは、「二閒手大日堂宇婆御前宮 次高賀山本宮寺兒宮飛瀧大權現本地阿弥陀如來 寶珠石座不動尊 西方高賀山蓮華峯寺並八幡宮」の行文である。
「高賀山蓮華峯寺並八幡宮」は高賀社のことで、「次」「西方」の用法から、「高賀山本宮寺」から「不動尊」までを一連と読まざるを得ない。
私はこの順路をそのまま修験の道と解しており、仮に「高賀山本宮寺-兒宮飛瀧大權現本地阿弥陀如來」と読むとしても、「兒宮」を峯稚児神社そのものとすれば、「飛瀧大權現」及び「寶珠石座不動尊」の余地がなくなる。
峯稚児神社は大きな岩の上にあり、どちらかと言えば「石座」の印象が強いとしても、「飛瀧大權現」にはつながるまい。
私は前段にある二間手の「大日如來」から「不動尊」まですべて本宮の影響下にあったと解しており、「兒宮」が本宮の権現だったとは言えないまでも、本宮の近辺にあっただろうと考えている。
もう一つは、 「兒宮」と「峯-稚児宮」という名称である。私は両社に位置の乖離と共に相当な時間差があるように感じている。仮に同一神としても、「兒宮」が本社であって、後者は分社したものではないか。
これらから「兒宮」は、そもそも高賀社の奥院ではなく、本宮の一連だったと推察している。今回はもう一歩踏み込んで、峯稚児宮を含め、「兒宮」の原形を探りたい。私は次の三点に着目している。
1 この辺りの神社では、連理木を神木として大切にしているところが多い。連理は男女が強い絆によって結びついていることを連想でき、彼らが仲良くすることを象徴している。また私は、各社のしめ縄を「蛇交」とみている。これらからすれば、子供の成長を願って稚児宮を建てることも自然である。本来、子孫繁栄を祈るためであった。
2 「大日堂宇婆御前宮」と「本宮寺兒宮」を対句として読めばさらに、また泰澄とその母親を連想できる。泰澄は少年期、越知山に籠り修行に励んでいた。
3 平安末期より各寺院において、稚児の男色が相当行われたという記録がある。修験者もまたこの例にもれず、各地で稚児を誘拐するなど悪事をはたらく者が少なくなかった。従って、彼らの鎮魂のために宮を作った。
以上である。それぞれをもう少し掘り下げて書くべきか否か迷っている。