ストーブ話

厳寒期である。さほど風は感じないが、足元から冷えてくる。皆さんは暖かく暮らしておられるでしょうか。
去年の暮れあたりから、八幡橋の付け替え工事中である。来年の春まで使えないそうだ。同橋は「八幡大橋」と間違いやすいので学校橋と呼びならわされている。桜町の子供たちにとっては小学校へ直通する橋なので、通学に難儀しているようだ。
とまどっているのは彼等だけではない。実際に渡れないと、ことあるごとに不便さを感じる。私は毎日、歳も考えず、やみくもに散歩へ出る。私事ながら、散歩コースが限られてしまい、時に大回りが避けられない。
これは橋がないと何となく不便だろうと感じていた事とは大いに異なる。橋がそこにあるのが当たり前になっており、「自然な行動」ができないわけで、なんだか自由を制限されているように感じてしまう。一旦獲得した待遇や地位が失われる喪失感に似ているかもしれない。
だとしても、自由な行動にはそれを支える膨大な労力が隠れているものだ。私としては、これまでの感謝の念を述べても、決してクレームをつけているわけでない。
橋に影響されないコースとなると、上流に向かうのであれば、左岸だけか、或いは八幡大橋ないし小野橋を渡るほかない。
どうしても仕事場とは逆の方へ足が向いてしまう。同居していた娘と孫が引っ越したところへ行くにも、道草してスーパーへ行くのも右岸である。となると、大橋を渡るよりない。
帰途、そのまま右岸を行くか再度大橋を渡るかは気分で決まる。道中に雪が残っていたりすると足元は冷たいままだ。右岸には、立ち寄ると、ストーブを勧めてくれる友人がいる。昔ながらの石油ストーブで、今どきのファンヒーターではない。上にはやかんが載っていて、湯が沸いている。足を近づけ、スリッパが乾くにつれて体全体が「ぬくとまる」。こうなると、腰に根が生えてしまう。主の巧みな話を聞いていると、散歩のことを忘れ、どうしても長居する。
私は餅が好きである。電子レンジで温めるのは、つきたての柔らかさが得られて、雑煮でなかなかいける。香ばしく焼くのも格別だ。炭が一番としても、私はストーブで充分満足している。今年も結構食べてきた。
主によると、この間ストーブの上でけんちん汁を煮ていたら、いつの間にか汁がなくなって「けんちん」になってしまった。幸い焦げるまでには至らず、水を足して煮たら、いつものように旨かったという。ほっとした表情がまことによろしい。
昔なら囲炉裏を囲んで四方山話をしただろう。今では、ストーブ話がこれにかわるのではあるまいか。世はストーブリーグで楽天イーグルスの田中君でもちきりである。私はと言えば、散歩の遠回りを歎き、「けんちん」に喜んでいる。